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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    二 町役人と町政
      町の住人
 城下町に住んでいた町人を土地・家屋の所有関係で分類すると、両方とも所有する家持、借地に家屋だけを建てて住む地借、借家に住み土地も家屋も持たない店借の三種類に分けられる。このうち、家持が農村での本百姓に当たる本町人であり、町役人になれるのは彼等だけであり、町奉行や町年寄に願書や届を提出できるのも彼等だけであった。さらに、これらのほかに大野では「出店」と呼ばれるものがあった(土井家文書)。おそらく住居は別にあって、町中の店先だけを借用して日中だけ商売を営んでいた人たちであろう。寛政元年(一七八九)の火事見舞金支出の記録(斎藤寿々子家文書)によれば、出店は大野全体で五八軒あり、二番下町(一一軒)、二番上町(九軒)、三番町・四番町(八軒)に多かった。なお、町中にあっても、寺社の門前は町奉行の管轄から離れるため、宗門改や五人組は別に帳面が作成された。
 これら家持・地借・店借の呼称は町により違いがあり、家持は、福井では役を負担するか否かで役家・無役と呼ばれ、勝山では高持・小高持、大野・丸岡では本家・本屋と呼ばれた。地借は、丸岡では地借であるが、福井・大野などでは地名子と呼ばれ、店借も、丸岡では店借であるが、福井では地代家・地代屋敷、大野などでは借屋と呼ばれていた。府中ではいわゆる地借と店借の区別は明確ではなかったようで、文化十二年(一八一五)の宗門人別帳(武生市立図書館文書)では地名子借屋人、天保九年(一八三八)の史料では、地借と記されている。
 大野の例をみると、地名子は、寺社が大家である場合と町人が大家である場合とで性格が異なっていたようである。すなわち、前者の場合は寺社の力が強く地名子が簡単に引越しできなかった様子がうかがえるが、町人が大家の場合には、大家が経済的に困窮したので地名子借家を経営したいという願書が残されていたり、火災で地名子家が類焼し建直す資金もないので地名子をやめるという史料も多く、大家と地名子との関係はかなり自由なものであったことがわかる(斎藤寿々子家文書)。



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