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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    一 城下町の発達
      屋敷の規模
 城下町は侍よりも町人の人口が多いが、その屋敷の規模には顕著な差がみられる。図19は貞享二年の福井城下絵図から作成したものであるが、城下における町人の居住空間の狭さが理解できよう。
図019 貞享2年(1685)の福井城下

図19 貞享2年(1685)の福井城下

 同年の「御城下絵図別記」(松平文庫)には藩の施設や侍屋敷地の規模が記されている。これによって面積が算出できた六七四軒の平均面積は四三八・六坪であった。最大は府中領主本多孫太郎(長員)の屋敷地で五〇〇〇坪をこえ、一〇〇〇坪以上が三六軒、五〇〇坪以上が一三七軒であった。最小は二五・三坪であり、五三八軒が、次に述べる町人の最大の屋敷地面積一六五坪より大きかった。なお、これには足軽や長屋住居の武士などは含んでいない。
 一方、町人町の屋敷地の規模は、慶長十七年頃の「北庄四ツ割図」(松平文庫)から算出できる。寺社を除く一〇四六軒の屋敷地の平均は三四・三坪、最小はわずか四坪、最大でも紺屋町奈良紺屋と長者町忠兵衛の一六五坪でしかなかった。また、町によっても面積に差があり、平均面積が五〇坪をこえるのは長者町七四・三坪、本町東組六七・一坪、呉服町六五・七坪、本町西組五九・八坪、一乗町五四・四坪、京町五一・一坪の六町で、逆に二〇坪以下の町は妙国寺町二〇・〇坪、西魚町一九・六坪、八幡町一四・八坪の三町であった。北陸道に面する町や、それに直交し城へ向かう道に面する町に広い屋敷地がみられ、城下の縁辺部や規模の小さい商人の住む町の屋敷地は狭かった。
 このような傾向は大野においてもみられ、寛保三年(一七四三)の石高から算出した屋敷地の平均面積は一〇八坪であるが、これを上回る町は五番町  一五五・一坪、四番町一四七・〇坪、七間東町一二二・七坪、七間西町一一七・二坪、一番上町一一〇・六坪の五町だけである。四番町を除く四町は美濃街道に沿った大野の中心街である。一方、町はずれの横町は七五・五坪、零細な町人が多かったと思われる大工町や二番下町は、それぞれ八四・二坪、九二・三坪と屋敷地の平均面積は狭かった。
 



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