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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    一 城下町の発達
      人口の集中
 藩主は城下町を領内の政治・経済の中心にするために、家臣はもちろん町人や寺社を集めたので、城下町には人口が著しく集中していた。
 越前第一の城下であった福井は、慶長年間には町人の家数が五一九〇軒、人口が二万五三三一人、正徳二年には、福井藩が半知になった後であるのでやや減少したが、それでも二万一三九三人であり、その後も表100のように二万人前後で推移している。宝暦六年(一七五六)の福井藩領全体の人口が一四万八四九八人であるので、福井城下に領民のおよそ七分の一が集中していたことになる。家中の家数も寛延三年(一七五〇)には町人の家数の三分の一に当たる一七七七軒であった。

表100 福井の戸口(町人町)

表100  福井の戸口(町人町)
  注1 家数・人口は寺社の分を含むものと含まないものとがある.
  注2 寛延3年の家中の家数は1,777軒であった.

 府中は、寛永二年に町人町の数一八、家数八八四軒であったが(浅井家文書)、延享元年(一七四四)と推定される史料では古くからの町であった本町一八町の家数が一一九九軒、人口が五八六六人、新しく町に組み入れられた町外一二町が六四八軒、三五九八人、合計すると一八四七軒、九四六四人とかなり増加している。当時の府中領二万石は越前国内にかなり分散しており、その総人口は一万一三二二人にすぎなかったので、府中は南条・今立・丹生三郡の他藩領や幕府領にも影響を及ぼす大きな町であったことがわかる(辻川利雄家文書 資6)。天保九年には家数が二四三一軒と増加するが、人口は七三一六人に減少しており、飢饉の影響がうかがえる(「武生町会所記録抄」高嶋文庫)。なお、本多氏の家臣については安永二年(一七七三)の家数が一七二軒であった(『武生市史』概説篇)。
 大野は、宝暦六年には町分が七七五軒、四七〇九人、枝村の野口・篠座・清滝・西方寺・金塚  の五か村と新田を合わせた総数は八六〇軒、五〇八一人であった(武田知道家文書 資7)。同年における大野藩領全体の家数が四八一五軒、人口が二万三七四二人であるので、大野には約五分の一が集中していた。幕末の安政二年(一八五五)には町・枝村合わせて家数九二二軒、人口六〇八五人に増加している(「大野町惣人別寄帳」斎藤寿々子家文書)。
 丸岡については本多氏改易の元禄八年(一六九五)の史料によると、町人の家数が「本屋地借店かり共ニ」四四四軒、人口は二五七九人であった。同年の丸岡領の家数三六六〇軒、人口一万九二〇三人に対する割合は、約八分の一であった。
 勝山は、延享三年に町人の家数が六三〇軒、人口が三二七三人であったが、天保九年には家数が九四七軒、人口が三六二二人となっている。家数が一・五倍に増加しているのに、人口は一・一倍しか増加していないことが注目される。
 小浜の場合は、城下町だけでなく湊町としての機能ももっていたので、他の城下と一律に比較はできないが、表101のように、町人数は一万人前後で推移しており、若狭最大の町であった。寛永十七年には家数一七二八軒、人口九七一二人(寺社を含めると一万〇三五〇人)であり、元禄六年には二二九五軒、一万一〇九五人に増加している。宝暦四年には家中四八二九人、町人九六〇一人であり、同年の小浜を除く大飯・遠敷・三方の三郡の人口が七万二〇七八人であるので、小浜への集中の度合いが知られよう(「国中高附」高嶋文庫)。

表101 小浜の戸口(町人町)

表101 小浜の戸口(町人町)
              注1 家数・人口は寺社分を含むものと含まないものがある.
              注2 宝暦4年の家中の人口は4,829人であった.



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