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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    一 城下町の発達
      小浜
 慶長五年に小浜藩主となった京極高次は、後瀬山上にあった山城と麓の居館を捨てて、北川と南川の河口付近の竹原村  に、水城である小浜城の築城を開始した。また、その南部の湿地を埋め立てて侍町と新たな町人町の建設にも取り掛かっている。同十二年にはいちおう完成したようであるが、天守閣はまだできておらず、酒井忠勝が小浜に入ってからも建設が続けられた(「酒井忠勝書下」)。最後に本丸多門櫓ができて、小浜城が完成したのは正保二年のことである。
写真128 小浜城下絵図

写真128 小浜城下絵図

 この城下も、城と竹原・西津の両侍町と町人町が截然と分けられており、典型的な町屋郭外型の町である。城の南西部の竹原侍町には家老をはじめとする上級家臣の屋敷、北側の西津侍町には下級家臣の屋敷が置かれた。足軽屋敷は西津の最北部の山側と上竹原にあった。
 町人町は、南川を隔てて城の南西部にあった。町人町のうち西側は京極氏が入封する以前からの町場であり、東北部は京極氏による小浜城築城にともなってできた町人町である。城下への主要な入口は東側の欠脇と西側の大谷口であったが、いずれも門の付近には屈曲がなく、城下内の道には何か所かの食い違いが設けられていた。
 寺社は、後瀬山の麓から東北にかけて配置されており、これらのなかには武田氏が居館として使用していた空印寺などもあるが、なかには妙光寺のように瀬木町・突抜町あたりから移転させられたものもあり、京極氏による城下町建設にともなって整備されたものであることがわかる。



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