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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    一 城下町の発達
      勝山
 天正八年に北谷七山家の一向一揆を滅ぼした柴田勝安は、九頭竜川に沿った河岸段丘上の平地に新たに築城し、勝山城と名付けた。七里壁と呼ばれる段丘崖が外郭に当たり、町屋郭外型に属する。崖下は勝山街道が通る交通の要地であった。この城は元和元年(一六一五)に破却されたので、詳細は不明である。
 小笠原氏時代の城下の構造をみると、段丘上の北側に城が、南側に侍町が置かれた。城に近い方に重臣の屋敷があったことは他の城下と同じである。足軽屋敷は南部に集中していた。町人町は、地形的な制約のため、段丘崖と九頭竜川との間の平地に設けられた。福井から来る街道は袋田町(本町)・郡町を通り立石町を経て大野の方へ向かうが、これに並行して後町の通りが設けられており、二列の町並ができていた。街路は城下への入口で屈曲させられているほかは、ほぼ直線的であった。
 寺社は、「幕末勝山城侍屋敷神社仏閣之図」(松井家文書)では町人町と九頭竜川の間に西北から東南に一六か寺が配置されている。このうち尊光寺は慶長二年に当地に移り、法栄寺・正等寺・西方寺など八か寺はその後に建立されたとされている(『勝山市史』風土と歴史)。したがって、柴田勝安の時代には寺町の整備は進んでおらず、後に集められたものと考えられる。



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