柴田勝家と同じく天正三年に信長から大野郡のうち三分の二を与えられた金森長近は、最初戌山城に入った。しかし、山城である戌山城からは大野盆地全体を見渡すことができず、城下建設の適地もなかったので、翌年その東の独立丘陵亀山に新たに天守を築き、その東の平地にほぼ直交する街路網をもつ城下を建設し、美濃街道を整備してこの城下を通すようにした。亀山は標高二四九メートルであるが、麓からの比高は七〇メートルであり、大野城は平山城であるといえる。
構造は、城郭が完全に堀に囲まれてはおらず開放型に近いが、堀のない部分は湿地帯であり、いちおう町屋郭外型に分類できる。侍町は、亀山の麓の藩主居館の東側の堀の内側と町人町の北部と西南部、そして亀山の裏に当たる西側にあった。ここも、上級家臣の屋敷は居館に近い部分に置かれ、足軽屋敷は防御の関係から亀山の西側と町の東北部に設けられていた。
また、写真127にみるように、城下の東側には町を守るような形で南北に寺町が形成されていた。一七の寺のうち岫慶寺・恵光寺などには金森長近の発給した文書が伝存しており、長近が城下町を建設した時に当地に存在していたか移転してきたものと推測される。しかし、明暦元年(一六五五)の開基になる長興寺もあるので、寺町の整備は福井藩・松平氏大野藩の時代にも続けて行われたと考えられる。 |