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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    一 城下町の発達
      丸岡
 柴田勝家の甥勝豊は、天正三年に一向一揆の拠点であった豊原寺に城を置いたが、ここからは坂井平野を見渡すことができず、翌年に現在地の椀子岡(丸岡)上に平山城である丸岡城を新たに築いた。初期の城下は若越に多い町屋郭外型より前の段階である総郭型に分類される。外郭の内側に町人町のみならず水田をも含んでいる型である。しかし、天保七年(一八三六)の「円陵輿地略図」によれば、郭外にも街道に沿って町人町が延び、足軽組屋敷も増設されており、外郭の内外に町人町が形成されている内町外町型へ移行する兆しをみせている。
 丸岡の構造を正保城絵図からみると、侍町は五角形の内堀の外側(重臣)と北側にあり、足軽屋敷は郭内の北西部・北東部と、郭外ではあるが、丸岡と福井を結ぶ道(福井道)が城下に入る地点に配置されていた。町人町は城の南部に集中しており、その街路は直交状で天正年間に建設されたものであることを物語っている。寺社は豊原から移転してきたものが多く、町の南西と南東に寺町を形成していた。とくに町の南西部は堀がなく寺のすぐ外側は深田であったので、町を防御する役割が担わされていたことは明白である。
写真126 正保年間の丸岡城絵図

写真126 正保年間の丸岡城絵図

 主要な街道は町の南西部から城下に入る福井道と北西部から入る金津道とであったが、この二つの道を結ぶ城下内の道は城の西部では一部屈曲させられており、防御に留意したことがうかがわれる。



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