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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    一 城下町の発達
      府中
 府中は、朝倉氏の府中奉行所を居館として本多富正が整備した城下町であり、富正が入った当時の詳細は不明であるが、正徳元年(一七一一)の「府中御城下絵図」(経王寺文書)では、館の西北部から北側および東側にかけて内堀が、外堀が北側の東半部から西側に描かれ、完全には囲まれておらず、図17の分類によれば、この時期の若越の城下町としては特異な開放型に近いものであった。この理由は、当地が古代に国府が置かれて以来の要地であり、北陸道沿いの町人町の西側には富正が府中を与えられる前に開かれた寺院が多かったので、これらを移動させることなく城郭を造営したためと考えられる。
図18 正徳元年(1711)の府中町

図18 正徳元年(1711)の府中町

 館(城)は茶屋と呼ばれ、南と西に門があり、南が大手門であった。侍町は、おもに城の周囲と大手門から南に続く道の両側に設けられており、大手門周辺に会所屋敷と並んで敷地の広い侍町が認められる。足軽屋敷は、内堀の外側で外堀が途切れた館の北側西半部と大手門から続く道沿いの侍町の東南部のはずれに設けられていた。
 主要な町人町は、町の中心軸となっている北陸道に沿って南北に形成されており、この街道から東西に出ている小道に沿っては裏町的な町人町が線状に延びていた。街路は、町の南北の入口で小さな屈曲が作られ、町の中心部で鍵型に大きく屈曲させられていたほかは、概して直線的であった。
 北陸道を挟んで館と反対の西側には、富正が入る前に成立していた寺社が多く、富正はこれを寺町として防御に利用している。貞享三年(一六八六)における府中一八町の面積二八町八反に対して、寺社の除地は一八町二反五畝もあることからも府中の寺町の規模が知られるであろう。



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