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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    一 城下町の発達
      福井
 天正三年に信長から越前のうち八郡を与えられた柴田勝家は、朝倉氏が拠っていた一乗谷を捨てて、足羽三か荘の近くに平城である北庄城を築いた。この地は北陸道が足羽川を渡る地点にあり、水運によって三国とも結ばれる交通の要衝であった。勝家は現在の柴田神社に天守を築き、その西側、九十九橋から北の方に直交状の街路をもつ町人町を設け、寺社や商人・職人などを集めた(第一章第二節)。
 慶長六年(一六〇一)に北庄に入った結城秀康もこの地を踏襲し、勝家が築いた北庄城と城下を改造した。天守を北に移し、荒川を付け替えて堀の改造を行う一方、城郭の北側に北陸道を東西に通し新たに松本付近にも町人町を建設した。付け加えられた町人町の街路は北陸道とそれに並行した道路が鍵型に屈曲させられており、勝家が設けた町人町の街路と対照的である。なお、町人町は北陸道に沿って九十九橋以南にも延びていた。城下の南限は、現在の福井赤十字病院の東方に設けられていた惣門であった。
 侍町は、おもに城の周囲の内堀と外堀で囲まれた部分と、城下の北側の北陸道が東西に走っている松本の町人町と外堀との間、そして足羽川を渡った橋南の毛矢に位置していた。このうち、重臣の屋敷地が集まっていた所が城の西側でいわゆる大名広路と呼ばれた所である。一方、足軽などが居住していたのは、松本の町人町の北側、町の最西部の明里米蔵に近い部分、東部では外堀に面した内側の部分と荒川の外側の一部、橋南では最西部の足羽川左岸などであった。いずれも城下の防御を考えた配置であり、とくに手薄であった北側には東西に帯状に足軽屋敷が続いていた。
 足軽屋敷とともに防御の一端を担っていた寺町は、正保年間(一六四四〜四八)の絵図によれば、足羽山の西麓から北麓にかけての地区と、町人町の西北、城下東南部の荒川のほとりなど、複数の地区に形成されていた。
 このように福井は、堀で囲まれた狭義の城郭内には城と藩の諸施設、上級家臣の屋敷と長浜町などごく一部の町人町が置かれ、主たる町人町は堀の外に置かれており、図17の分類では、最も完成された城下町プランといわれる町屋郭外(郭内専士)型に分類される。なお、北庄が福居(のち福井)と改称されたのは、寛永元年(一六二四)である(第二章第一節)。



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