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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    四 塩田と塩木山
      十州塩の進出
 瀬戸内の入浜塩田は、正保期から慶安期に一応の成立をみ、本格的経営が確立するのは元禄期前後のことという。慶長十四年に塩一俵(京升六斗入)が銀一〇匁、寛文元年は一一匁であったものが、貞享元年(一六八四)には三匁七分、享保十一年に四匁六分に下落した(「鞠山藩巨細書」など)。なお、敦賀町には、塩の売買を行う塩問屋が、天和二年(一六八二)に壷屋・網干屋など六軒あり、うち四軒は口入屋であった(「遠目鏡」)。
 享保十三年に、泉村と二村の一四九俵の塩年貢は、御払い塩値段の平均値をもって銀納となった。敦賀湊に近い両村は、寛文頃入船数の増大にともない材木置場や船囲い場となり、塩田が潰されたため近隣の浦々から塩を買い調へ、現塩を上納してきた。享保期には現塩の購入が困難になっていたのであろう。
 大比田浦は、文化六年の大波浪で全塩田が流出したのを契機に製塩業を全廃したことは先にも述べたが、近くの三か浦も廃業に追込まれた。敦賀西浦の塩業の不振を示すものに、天保十四年(一八四三)九月一日付「縄間浦諸網取続ニ付願書」(山本計一家文書)があり、「塩外字之儀者木柴多ク相用ヒ、殊之外手之入候義、別而当節奉公人等も絶而無御座、毎春浜御見分之節御覧被下候通り荒浜等も有之」と述べている。
 また、三方郡の文政二年(一八一九)の「菅浜等四ケ村庄屋・塩師惣代等他国塩積来りニ付口上書」(田辺文書)には、「近年他国塩夥敷御国江積来り、浦々迄も積廻し売払候故、銘々たき取候塩一向売不申、夫レ故相庭不相応之下直ニ売」りとあり、若狭の浦々にまで十州塩が持ち込まれる様子が述べられ、それによる地元塩の値下りが嘆かれている。
 右の状況から半世紀以上も経過した明治十五年、若越両国からなる福井県の製塩高は四九二六石であった。製塩集落は三一か所、総面積は一六町五反余、塩竈数一四四を数えた。生産高四九二六石のうち自浦で消費するのは八四八石、残りの四〇七八石が近隣の村々に売り捌かれた。



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