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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    四 塩田と塩木山
      塩木山と山手塩
 塩田経営上、塩浦にとって塩浜普請以上に難題であったのが塩木の入手で、生産費の半分以上がそれに充当されたという。
 世久見浦の枝郷である食見は、本村・枝郷の立合山(さんばく)に山手米二石一斗六升(江戸升一石七斗二升八合)を本村に納めて入山してきた。しかし不足する塩木等のため、寛永期にはたびたび本村の長百姓一〇人の個人持の山に切り込み、本村より訴えられた。境目を明確にするため、承応三年(一六五四)には立合山は一三か所に小割され、この小割された山を年銀一〇〇匁で本村より永請することが、寛文五年に決められた。ここに食見は安定した塩木山を得て、自立した塩浦への発展の契機を手にした。
 坂井郡の三里浜では塩木は自給できたようであるが、敦賀郡の東浦の浦々のほとんどは自山だけでは賄いきれず、山手塩・山手銀などを納めて山村や遠く他領の村にまで請山を求めた。
 寛永元年敦賀郡は小浜藩領に支配替えになったため、従来福井藩から東浦の大比田・横浜・杉津・阿曽の四か浦に発給されていた一八二枚の山札が差し止められ、南条郡内への入山がとめられた。翌年ようやく山手塩八六石(塩升五斗入・一七二俵)の納入を条件に、南条郡今庄領山中・大桐・新道・二ツ屋の四か村での請山が許可された(中山正彌家文書 資8)。従来、四か浦は右の請山で塩木以外の用木・割木・杪木を伐り、敦賀町へも売り出していたが、今回福井藩は塩木以外の伐採を禁止し、二人の山奉行を配置しこれを監視した。この結果、不足する塩木を同郡の浦方の大良・大谷両浦から買い求めるようになった。なお、東浦の塩木とは、「我等仕候しほ木ハ、一年二年之間ニいてき申候しは・ほゑ・ばい木・かやなどにて御座候」(同前)とあるもので、鎌や鉈鎌で伐り採れるほどの細い柴や萱の類いであり、これらは牛の背に付けて運ばれた。
写真125 塩木山立入についての阿曽浦等の申状(末尾

写真125 塩木山立入についての阿曽浦等の申状(末尾

 大比田浦の寛永二年の塩年貢は、本塩四八九俵二斗三升五合と新塩一二〇俵および福井藩に納める山手塩一二〇俵の計七二九俵二斗三升五合であった。その後寛文九年には、新塩一二〇俵が免除されていたが、山手塩は一七二俵に増加していた。さらに享保十四年には、塩年貢は二七一俵余と山手塩一一四俵に減免されていた。ところで、大比田浦は文化六年の大波以来製塩を廃業しており、幾度となく福井藩に揚山(請山の返却)を願い出ていたが取り上げられず、結局慶応元年(一八六五)まで半世紀間山手銀の納入を続けた(中山正彌家文書)。
 これまで、塩浦と山村は塩木と山手塩の交換による相互依存の関係で結ばれてきたから、塩木が不要になればこれに代って、用木や薪とによる新しい関係を図ったのであろう。



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