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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    四 塩田と塩木山
      塩田普請
 日本海の冬は荒れ、その激浪による塩田の被害は、石垣の堤防でも防ぎ切れない年も多かった。寛文七年(一六六七)八月、幕府巡見使が敦賀東浦を検分した折、よく整備された塩浜に感心し、冬期の塩浜破損について質問した。大比田浦の庄屋は、代官・郡奉行が冬二月中に塩浜検分をし、大破損の場合は藩の直轄事業で修覆工事がなされ、地元の男女五〇〇〇人もの人夫が投入されるが、中破損の場合は藩よりの借米で塩師の自普請とされている、と応答した(中山正彌家文書)。
 これから半世紀後の享保十四年(一七二九)の「敦賀郷方覚書」には、借米の規準や普請人夫の手当などについて次のように規定している。
  東浦ハ人足壱人三合宛、塩高定米塩壱俵ニ米壱升三合積、塩竈屋建直しハ壱俵、繕
  ハ弐斗、右何茂当暮利なし上納、かま屋材木なるハ願手形ニ裏書致留帳押切加印形
  夫々持分之陰山ニて剪之、
 藩の塩年貢徴収は、同時に、右史料にみるように各種の保護策が講じられてはじめて可能であったことがわかる。
 それでも、文化六年(一八〇九)の大波浪によって全塩田を流失した大比田浦は、これを契機に製塩業を全廃してしまった(「鞠山藩巨細書」石井左近家文書)。安価な十州塩の進出を受けた小浜藩が、塩田修覆の補助を継続できなくなったからであり、塩田普請の費用が地元と藩の両者にとっていかに大きな負担であったかが知られる。



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