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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    四 塩田と塩木山
      揚浜塩田と貝釜
 瀬戸内の十州塩は、入浜塩田で製造された。潮の干満差を利用する入浜塩田は、潮差が数メートルもある瀬戸内や三河湾での方式で、〇・二から〇・五メートルしかない日本海沿岸ではこの方式は採用できなかった。したがって若越では、古代・中世以来の伝統的な揚浜塩田方式による製塩が近世に至っても引続き行われ、近代の明治に製塩業が終焉するまで継続した。
 揚浜塩田は、満潮より少し高い所に地盤を築き、海岸に沿って石垣の堤防を設けて塩田へ波浪が流入するのを防止した。地盤は、塗り浜が一般的で、「敷」と呼ばれる粘土を十数センチメートルほど敷きつめ、その上に三センチメートルほどの厚さに細かい砂を撒いてつくられた(中山正彌家文書)。
 多雨多湿な気候の北陸にあっては、比較的晴天が多く高温な旧暦の六月から九月(食見・東浦の一部では四月から十月)の期間に製塩がなされた。晴天の早朝に海水を桶で汲み上げ、整地された砂面に撒布し、午前中に太陽熱と風によって水分を蒸発させると、地盤の砂に塩の結晶が付着する。午後にこの砂を掻き集めて「沼井」の中に入れ、上からさらに海水(三・五パーセントの塩分を含む)を注ぐと、濃度の高い鹹水(一五パーセントほどの塩分を含む)が得られる。この鹹水を竈屋の釜で長時間煮詰めて(煎熬)、塩を得るのである。入浜に比べて、潮汲みと撒布の手間が余計にかかることになる。
写真124 塩汲の図(『越前国名蹟考』

写真124 塩汲の図(『越前国名蹟考』

 その塩釜は能登では鉄釜であったのに対して、若越では貝釜または石釜であり、鉄釜が導入されるのは明治以降のことであった。貝釜は、土を松葉灰で練ったものの中にシジミの貝殻や小石を入れたもので、土釜ともいった。石釜は、平石を粘土で継いだものである。嶺南では貝釜、嶺北では石釜が一般的であった。貝釜などは脆弱なので期間中三回位も造り替えられた。なお、製塩高は天候に大きく左右され、年によっては二〇パーセント以上の増減があった(中山正彌家文書)。



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