目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    四 塩田と塩木山
      塩田経営
 新塩年貢賦課以後、たびたび塩浦からの減免願が藩に提出されている。元和五年(一六一九)の「新出来塩ニ付東浦百姓等願書」(中山正彌家文書 資8)に次のようにある。
一、御しほはま(塩浜)村々めいわく(迷惑)仕、近年ハ小百姓共ちくてん(逐電)いたし、春
   秋之御納所過分之御みしん(未進)に罷成候へハ、相残る百性等もつゝきかたく御座
   候間、前々の次第を御なけき申上候御事、
一、前々ハ田畠之かう(耕)作を専と仕作毛のふじゆく(不熟)をはまのはけミにて仕立候、
   此間ハしほ之御年貢過分ニ罷成候へハ、しほを専ニいたし田畠をさなから作りあらし
   申ゆへ、御年貢不罷成候てたねもミ(種籾)まてもしち(質)物ニ入申候、しほ桶牛馬
   又ハ子共まてもうりすて申候て迷惑いたし候、其上毎年しほはま波にうちくつ(打崩)
   し過分之ふしん(普請)を仕候、しほ木仕候も山道三里四里罷越候、此御山手にも過
   分之御山手しほ又ハ銀をも相立申候、
 これらの条文から、過重な年貢に呻吟する塩浦の実態が如実に読みとれる。
写真123 江良浦

写真123 江良浦

 敦賀郡は寛永元年(一六二四)より小浜藩領となり、これを契機に塩浦は塩年貢の減免を願い出たが、受理されなかった。その後酒井氏の時代になり慶安四年(一六五一)までに、減免が実現していたようである。その結果、江良浦の塩年貢高は二〇八俵三斗六升七合から一五一俵三斗に軽減された。本塩年貢高の一六七俵二斗五升八合よりさらに一六俵ほど低くなった。この間、江良浦は一方でたび重なる増徴に対応して、塩田面積の拡大にも努めていた。慶長三年の七反七畝一〇歩と一反九畝七歩(塩浜地子米二石七斗五升八合分)の計二八九七坪に対して、慶安四年の塩田の総面積は四五七七坪と増加した。坪数にして一六八〇坪、割合にして五八パーセントの増である。一町五反二畝一七歩の塩田は、三四筆・二二人持で、一筆平均一三五坪、一軒平均二〇八坪となり、塩年貢の平均負担は一軒分六、七俵ほどとなった。江良浦の村高は一二一石余で、寛永十六年の家数は一七軒(うち公事人  七軒)、人数四八人、牛九匹等であった(刀根春次郎家文書 資8)。



目次へ  前ページへ  次ページへ