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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    四 塩田と塩木山
      越前の塩年貢
 越前最大の規模をもつ坂井郡三里浜の一四か浦がもつ二一四〇間の塩浜年貢は、慶長三年に銭三二一貫文(銀三二一〇匁)であり、一間分一五〇文ずつであった。同年の敦賀郡の塩田は一反当たり一石四斗または一石三斗の斗代が付けられていた。浦底・沓・江良の三か浦の塩田は村高の内に算定されたのに対し、大比田・横浜の両浦は村高の外にあり、小物成の対象として扱われた。
 江良浦では、文禄三年には年貢塩のほか「召塩」の負担があった(刀根春次郎家文書 資8)。手浦では、慶長二年に納升で二俵の塩手米が領主より下行米として与えられ、これに対して塩一四俵の納入が命ぜられている(秦実家文書)。米俵は京升四斗五升六合入であったのに対して、塩俵は六斗入であった。若狭小浜で同三年、米五石が塩八石の相場であったから、敦賀郡での塩手米支給による召塩の徴収は、塩師に大変な負担を強制していたことになる。
 太閤検地後この塩手米支給による召塩徴収の制度はなくなり、塩年貢一つに整理され、江良浦の塩年貢は一六七俵二斗五升八合となった。これは、塩浜七反七畝一〇歩と反別一石四斗代の石盛の積で算出された分米一〇石八斗四升七合を、召塩徴収の米一俵当たり塩七俵の換算率に直したものである。塩手米の支給はなくなり、塩年貢は増徴される結果となった。



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