目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    四 塩田と塩木山
      若狭の塩年貢
 近世の世久見浦は、三方郡内で菅浜・遊子の両浦とともに塩の主産地であった。天正十六年の太閤検地で六反三畝二歩の塩田が帳付けされた。文禄三年(一五九四)の世久見浦の年貢塩は一六石三斗六升であった(渡辺市左衛門家文書 資8)。六反三畝二歩の塩田の生産高は不明であるが、明治十五年に一町七反七畝あった塩田の前年の生産高は三六〇石であったから、生産力が同レベルならば、一三〇石から一九〇石の生産が推測され、四五石の塩年貢は、生産高に対して二四パーセントから三五パーセントに相当しよう。
 近世の甲ケ崎村は、遠敷郡内で田烏浦と並ぶ塩の生産地であった。甲ケ崎が小浜湾内にあったのに対し、田烏浦は湾外にあった。慶長三年の甲ケ崎村の塩年貢は、荒浜分二石一斗余を除く一八六石一斗六升余と口塩一五石六斗六升余の計二〇一石八斗二升余で、そのほかに七石五斗の付増を含む六九石五斗の役塩があり、合計二七一石三斗三升余であった。これらは、九月一日に一八四石が金子一枚(一〇両)と銀二九八匁、十一月十日には八〇石が金子一枚で売り払われ、藩の蔵に納められている。三月には一〇石六斗六升分が銀四六匁四分に代えられており、銀一〇匁で塩二七桶半(二石二斗九升一合六勺)の換算率が示されている。なお、この年十月十九日の米の町払の値段が五〇石(町升)金一枚であったから、米五石が塩八石に相当した(桑村文書 資9)。甲ケ崎塩田は波静かな小浜湾内にあり、南川・北川の河川からは離れていたためもあり、若狭最大の規模となっていた。



目次へ  前ページへ  次ページへ