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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    四 塩田と塩木山
      三里浜の塩田
 坂井郡の塩田は、慶長期には三里浜にしかなく、ここの塩田は嶺南(敦賀郡以南)の一浦ごとに隔離された小規模な塩田地域とは様相を異にしていた。北の黒目から南の雲出に至る一四か村に広がっており、総計二一四〇間があったが、そのうち約一三パーセントに当たる二八五間半が荒浜になっていた(表99)。これは、冬季の北西風による飛砂の被害で塩田が深く埋没したためである。この点もまた、同じ北西風によりながらも嶺南の塩田の被害が波浪によるのとは異っていた。

表99 慶長3年(1598)三里浜塩浜の間数・塩釜数

表99  慶長3年(1598)三里浜塩浜の間数・塩釜数
  注1 分銭は1間につき150文宛,(  )は作成者の集計による.
  注2 *検地帳には80間と記すが,81間と考えられる.
  注3 「坂井郡村々塩浜検地帳」(広浜伊左衛門家文書)により作成.

 実際に製塩を行っている塩田の毛付一八五四間半の年貢銭は二七八貫文余で、この額は、敦賀郡の太閤検地帳では銭一貫文は米一石に換算されているので(刀根春次郎家文書)、米二七八石余となる。三里浜一四か浦の一か浦の平均分米は約二〇石となり、敦賀郡五か浦の一か浦平均の倍に当たる。敦賀郡の浦方は東西で二〇か浦ほどであったので、慶長期の三里浜は、若越最大の製塩基地であったことになる。しかし、一戸当たりの経営規模が不明であるので、専業の塩師が多数存在する塩浦であったと断定はしにくい。



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