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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    四 塩田と塩木山
      太閤検地と塩浜
 若越の諸浦において、近世初期まで塩業は漁業と並んで重要な産業であった。元禄期(一六八八〜一七〇四)前後、播州赤穂に代表される瀬戸内の「十州塩」が全国に広く大量に出回るようになって、能登と並んで日本海沿岸の二大製塩地の一つであった若越の塩業は衰退するが、明治期(一八六八〜一九一二)まで営業を続けた塩浦もあった。
 若越には全国的にみた場合比較的多くの太閤検地帳が残る。若狭の浦方には四点残るが、そのうち塩浜についての記載もある三方郡世久見浦の場合を以下にみてみることにする(表96)。塩田は四二筆からなり、総面積は六反三畝四歩半、名請人は三九人である。一筆の平均は一畝一五歩、最大でも三畝、最小は二二歩にすぎない。最大の所有面積を持つ道場は四畝二〇歩である。右の塩田規模から、天正期(一五七三〜九二)の世久見浦の塩業は専業とはなりにくく、農業や漁業などとの兼業でなりたっていたと思われる。しかし、村高八〇石余の名請人五五人のうち三九人が塩田を所有していたことから、世久見浦にとって塩業は重要な生業であり、漁業とともに零細な農業を補完していたことが知られる。

表96 天正16年(1588)世久見浦の塩浜

表96 天正16年(1588)世久見浦の塩浜
                 注) 「若州三方郡之内世久見浦御検地帳」(渡辺市左衛門
                    家文書)により作成.

 敦賀郡の浦方には四か浦分の慶長三年(一五九八)の検地帳が残っている。西浦の浦底浦の場合、塩田の総計は一三筆・二反二畝歩、一筆平均は一畝二〇歩と小さく、また所有面積も四郎二郎の三畝六歩が最大で、平均は二畝歩ほどである。沓浦は総計七筆・三反三畝、五人の持主の平均は六畝一八歩で、八畝歩の持主が二人おり、彼等は塩業への依存度がかなり高かったものと思われる。沓浦の三枚の「惣分」の塩田は、中世的経営の名残りであろう(表97)。

表97 慶長3年(1598)浦底浦・沓浦の塩浜

表97  慶長3年(1598)浦底浦・沓浦の塩浜
         注1 数字は史料のまま.
         注2 「越前国敦賀郡浦底御検地帳」(浦底区有文書),「越前国敦賀郡沓浦御検地帳」
             (山本宗右衛門衛門家文書)により作成.

 西浦の二か浦に比べ、敦賀東部の東浦三か浦の塩田の総面積は大きい(表98)。東浦最北端の大比田浦の一町六反余は郡内の他浦を圧しているが、この面積でも浦人の多数が専業として製塩に従事することは困難であったろう。

表98 慶長3年(1598)敦賀郡の塩田検地

表98  慶長3年(1598)敦賀郡の塩田検地
            注1 江良浦の嶋手や薪代米は1石を銭1貫文に換算.
            注2 各浦の太閤検地により作成.



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