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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
     三 漁場と漁法
      敦賀四十物町の成立
 小浜藩が前記争論に対して新規停止の裁定を下した背景には、日本海北部の国々から敦賀・小浜の両湊に大量の四十物と呼ばれた海産加工物の移入があった。
 敦賀町三六か町の一つ池子町が川西にあり、寛文二年にその枝町として今橋の西詰に移入海産物を取扱う町の町立てが始められ、翌三年より「四十物町」と名付けられた。その結果四十物や塩などの海産物を取り扱う納屋者が集住するようになり、同三年の家数は二〇軒に達した。同四年の敦賀湊への四十物は七万三三九一箇(二箇一駄分、約三六貫)あり、うち四万五八八六箇が敦賀町で売り捌かれ、残りの二万七五〇五箇が大津や江戸へ送られた。金額にして二万両ほどの取扱量で、米や大豆の穀物を除けば、敦賀湊への入荷品として最大のものであった。
 四十物問屋の口銭は寛文六年には三歩(三パーセント)で、うち二歩は売問屋(本問屋)、一歩は買問屋(仲買)の取り分であった。四十物などの海産加工物を取り扱う商人は四十物町以外にも住んでおり、このなかには生魚を商う六軒の魚問屋もいた。四十物町の主力は九人の「納屋衆」で、そのうち四人が越前下浦の出身者であり、それだけ敦賀に入津する四十物に占める越前四十物の比重が大きかったものと思われる。
 寛文期は、近世の問屋制度が成立した時期で、西廻航路の開発、京升への統一にみられるように、全国市場が大坂を中心に形成されたが、そのなかで敦賀が小浜とともに日本海の拠点都市として重要な地位を占めていた。そのことは敦賀四十物町の成立という、漁業の面からもいえる。また越前下浦から松前に至る広範な地域に水産業が成立をみて、多量の各種海産物が産出される状況に至って、はじめて敦賀四十物町が成立しえたのである。同時に、若狭・敦賀がこれまで有してきた漁業の先進性が失われ始めるのもこの時期からである。



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