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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
     三 漁場と漁法
      敦賀両浜の大座・小座争論
 沖手繰網漁をしたのは敦賀川向の両浜漁師であるが、彼等は天正期の敦賀町の「町割」と呼ばれる町域の整備にともなって、町の中心部である「川中」から小屋川の東側である「川向」(川東)へ強制移住させられた、中世舟座の一つである「河野屋座」に属していた。
 両浜漁舟座は大座と小座に分かれ、大座は沖漁と下り荷物の運送にも当たり、小座は磯漁のみを行った。沖手繰網漁は、この大座仲間の漁であった。寛文七年には、川向御所辻子町と川向唐仁橋町の両浜に、「はがせ(羽賀瀬)船」(天渡舟ともいう)がおのおの一〇艘と一三艘の計二四艘があり(表95)、これらの船が沖手繰網や底延縄の漁をしていた。

表95 寛文7年(1667)敦賀両浜の家数と舟数

表95  寛文7年(1667)敦賀両浜の家数と舟数
注) 「寛文雑記」により作成.

 寛文十三年一月には四か条からなる「大座仲間定」を取り決め、一九人が二人の肝煎にその定の遵守を誓った。(1)沖漁場で強風に出会ったさいは、互に印を揚げあい先舟に追いつき急いで帰る。(2)あとに残り、網引きを続けた場合は、その漁分の王余魚はすべて仲間へ没収する。(3)もし、越前下浦である南条郡以北の海域に寄り、その在所の漁師に魚や舟道具を取り押えられても一言も言い合いせず、没収されたものについて在所の庄屋の書付を受け取って帰る。(4)波静かな出漁日でも、四網より多くの網引きはしない、などの取決めであった(敦賀町漁家組合文書)。
 小座の磯漁は、大座の延縄漁のための餌取舟や海鼠引舟、それに栄螺や鮑などをとる磯見舟などでなされた。なお、小座には小引と磯見の両座があり、川向御所辻子町に一八艘の小舟を持っていた(表95)。
 両浜漁師は先にもみたように、敦賀郡内の今浜や立石浦と、また隣接の丹生や三方の両郡とも漁法や漁場をめぐって対立し抗争を操り返していた。それと同時に、両浜内部の大座・小座のあいだにも争論が続いていた。
 万治元年、小引座(海鼠引)の座頭であった彦兵衛が鱚・小鯛の釣漁をして大座に咎められ訴訟となるが、その結果は小引座の鱚・小鯛釣は、手釣・竿釣ともに禁止されることになった。その後、延宝元年にも彦兵衛は釣漁への進出を企てたが、「新法停止」の扱いで再び失敗した。寛文年中にも大座・小座の出入があり、ここでは川向御所辻子町の役職について、大座と小座の両座からおのおの肝煎一人・年寄五人の平等な人数を出すことが奉行所から言い渡された。しかし宝永七年(一七一〇)には、これは守られておらず、大座が二人の肝煎役を独占していた。
 宝永七年に、刺網と夜釣舟について、小座の磯見座と大座のあいだで争論となった。大座の言い分は、磯見座は大座のうちから出たものであり、「四尋之小舟ニ壱人乗、磯見を仕、貝・さゝいを取、渡世を送」(敦賀町漁家組合文書)るもので、磯見座の刺網は一〇年以前に始まり、磯刺網を少々認めていたが、近年多数の網を刺し、沖中へまで進出し、大座の稼業を脅すまでに至ったので争論となったという。奉行所は、この大座の主張に添って、磯見座の夜釣舟の制限と刺網禁止について次のような五か条を申し渡した。(1)夜釣舟は三人以下にすること、(2)夜釣舟の篝火は一挺のみにすること、(3)刺網は禁止すること、(4)家一軒に舟一艘のみにすること、(5)持舟の長さは四尋以下にすること。この裁定とともに、磯見座の座頭彦作は「新法停止の掟」を守らない一揆・徒党の元凶として篭舎の刑を受けた(同前)。
 このように小浜藩領内では、寛文・延宝期頃には、「新法停止の法」が固定化し、若狭・敦賀の漁業における先進性は次第に失われつつあった。



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