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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
     三 漁場と漁法
      沖手繰と底延縄漁
 寛文四年春、立石浦が底延縄を延えてある沖合の漁場へ、敦賀の両浜漁師町と今浜の漁師が、王余魚引きの大網を引き始めたところ、立石に網を取り上げられ争論となった。小浜藩は、従来から「惣海網場之定」はなく、すなわち沖合の漁場は入会であるからと、容易に判決が出せないでいた。翌五年六月、両浜は従前からその場所で沖手繰を引いてきたとして、その既得権を認めるよう藩に願い出た。藩は、初尾料を納める神社、沖魚を取り扱う魚屋をはじめもろもろの関係者から「古来の様子」を尋ね出したうえで、翌月に裁決を下した。先年争論の沖漁場で、両浜が引網をしているところへ、立石浦が底延縄を延え出したので、両浜に縄を取り上げられていたことがわかり、両浜の沖手繰が新規でないことからその操業が認められることになった。しかし、今浜については、今回が初めての出漁であったため、「新規停止」の定によって、沖漁から締め出されることになり、磯漁師のままとされた。
 この争論は立石と両浜だけにとどまらず、立石浦同様にこの海域で底延縄漁をしていた三方郡の浦々や、外字漬木漁をしていた越前下浦の丹生郡なども立石浦に加担し、さらに敦賀町の浮買座もこれに加わるなど、若狭湾東部の若越の浦々を巻き込む大規模な事件となった(「寛文雑記」)。
 この沖漁場の争論については、右の「寛文雑記」のほかに三方郡にも訴状の案文と絵図が早瀬と日向の両浦に残されている(上野山九十九家文書・渡辺利一家文書 資8)。三方郡の「若狭湾沖漁場図」は、無年紀ではあるが訴状の添図であるから寛文五年のものである。敦賀町にも、敦賀郡を中心とした同様の沖漁場図がある(敦賀町漁家組合文書)。こちらは正保二年の年紀があるが、これは近代になって記入されたものと思われ、原図に近いものは無年紀である。
写真122 若狭沖漁場大絵図

写真122 若狭沖漁場大絵図

 敦賀の沖漁場割図は、丹生郡と敦賀郡、そして若狭の三地域の漁場の区分が描かれており、沿岸から沖漁場への距離が記入されている。「(沖)猟場より立石迄拾五里」「立石崎より(敦賀川向両浜迄)五里」とあり、敦賀漁師町より沖漁場までは二〇里の距離が記されている。この里数は寛文五年の「行蔵口上書」(「寛文雑記」)とその里数が一致する。
 三方郡の二枚の絵図にはわずかの違いがあるが、ほぼ同様の記述内容が記されている。漁場は磯より三段に分けられ、越前・若狭・丹後あるいは隣接する敦賀・三方・遠敷の三郡と思われる漁場割が描かれ、さらにその三段の漁場には魚種と漁法、漁区の幅や海の深さなどが記入されている。すなわち、磯から沖へ、磯漁場―「磯(立石・大山)より五里・三里之間、鯛・小鯛(釣場)・手繰網場」、中漁場―「鱈縄場より五里磯、鯖縄場」、沖漁場―「海之深さ弐百尋余、此内鰈・鱈・つの字(鮫)縄場」とある。なお、沖漁場の最も沖合のほぼ中央部に「此海底ニ瀬有」とある。敦賀の絵図には、中央ではなく東端の越前岬北西に「沖ノ瀬くりと申所」とあり、両絵図の「瀬」は同一のものと思われるが確かではない。
 明治二十三年(一八九〇)の「水産調査予察報告」(水産局)に、「沖ノ瀬」について左記のごとくある(『日本漁業経済史』)。
  沖の瀬、本區洋中ニ連亙スル一大暗礁ニシテ經ケ岬端、數里ノ海底ヨリ起リ遥カニ第六區越前
  海ニ連續ス、……沖合ハ軟泥トナリ頓ニ其深サヲ増シ二三百尋ニ達スト云フ、礁中ニ棲息スル
  魚類ハたらヲ最トシ周年其群ヲ見ザルナク、之ニ亜グヲかれいトシ、かに、えび、べちゃらゑい等
  モ亦棲息シ礁上ニハあらノ群集ヲ見ル、……越前國丹生郡梅浦村ヨリ北西二十海里餘アリト稱
  スルモ固ヨリ概數ニ過ギズ、
 二枚の絵図は里数や深さについて、「越前岬から敦賀まで拾五里」とし、また「丹後経ケ崎より越前岬迄三拾五里」としている。後者は、磯伝いに湊から湊への里数を越前岬から経ケ崎までを累積した里数で、直航のものではないので、リアス式海岸の若狭湾ではとくに実際の距離の倍ほどの里数になっている。また、深さ「二百尋余」は、一尋は海では五尺なので三〇〇メートルになる。これも延縄の立つ深さで、縄は海流で流されるので垂直の深さはかなり浅くなる。さらに二〇〇尋の海底を引く沖手繰網の引綱の長さは、三方郡浦中よりの訴状にあるように「千尋」にもなっていた。
 このように、寛文四年には、敦賀沖手繰漁は沖合一五里・二〇里の深さ二〇〇尋の海底を一〇〇〇尋の綱手をもつ「大網」で引かれるもので、舟も「天渡船」と呼ばれる長さ七尋の七人乗の大船であった。その沖漁場は、同時に敦賀立石や「三方浦中」の底延縄場になっており、王余魚のほかに鱈やつの字鮫の漁場でもあった。若狭湾では、寛文期に釣と網の両方の沖漁が広く成立しており、王余魚や鱈の底魚が捕獲されていた。この沖海では若狭・越前・丹後の三か国の入会の漁場としての新しい秩序がこの時期に形成された。



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