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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
     三 漁場と漁法
      外字漬木漁の創始
 敦賀沖手繰漁が丹生郡の沖合で衝突したのが、地元の外字漬木漁であり、これは丹生郡と三方郡の浦々の代表的漁法であった。三方郡では若狭湾の東部で湾内に突き出た常神半島の浦々で、丹生郡では越前岬の南北に位置する浦々で早くから盛んであった。
 「外字」の魚名は室町初期に成立した『庭訓往来』には見当たらないが、室町中期の『節用集』にはその名が現れる。若狭神子浦の年未詳九月二十九日付「中須賀興清書状」(大音正和家文書 資8)に出ている「しいら五こん」が、若越で最も古い史料であり、この書状は室町時代の文明(一四六九〜八七)頃のものとされているが、以後天文期の古文書に多く現れる。中央で外字料理が始まり、その名が知られるようになった室町中期頃、若狭の常神半島では外字が捕獲されていた。江戸時代になり、寛永十五年の『毛吹草』に、七月の季語として指鯖とともに外字があげられており、さらに能登名物として「内海外字」も記されている。 
写真121 蒲生浦漬木漁場絵図

写真121 蒲生浦漬木漁場絵図

 右の若狭と能登の外字が、網漁か釣漁のいずれの漁法で捕獲されたかは不明であり、さらに漬木漁との関連はわからない。外字漬木漁について、『日本国語大辞典』(昭和五〇年〈一九七五〉)は「江戸時代、寛文年間に長崎県五島ではじめられ、以後日本海側各地で行われる」としているが、丹生郡小丹生浦に外字漬木漁に関する次の史料がある(刀外字茂兵衛家文書 資3)。
 一札之事
 但 よこお(横尾)壱つ、ほのけ、午年慥ニかり申所実正也、何時成とも貴様つけ木御うち被成候者急度相渡可申候、其時我等も何ニかの儀申間敷候、為其一札仕候而上候、仍而如件、
  承応弐年(マゝ)午六月廿八日 かも(蒲生カ)浦孫左衛門(花押)
  小丹生浦 助右衛門殿まいる
 上記の史料は若越最古の外字漬木漁を示す一次史料であり、万治三年(一六六〇)以後にも同様の証文が同家文書中に多数ある。蒲生浦の孫左衛門が小丹生浦の漬木場を借りたのは、蒲生浦ではそれ以前から漬木漁が行われていたが、自浦の漬木場が満杯になったためであろう。越前岬近くの左右浦には、延宝五年に南隣りの玉川  浦と漬木場出入をしたさいの返答書がある。それによれば、左右浦は同五年より三二年以前に三か年間、上海浦の者へ二か所の漬木場を貸したという。三二年前は正保二年に当たり、先の蒲生浦の孫左衛門が小丹生浦の漬木場を借りた承応二年(一六五三)より八年前になり、外字漬木漁の開始は、国語辞典の寛文年間より二〇年以上はさかのぼることになる。
写真120 漬場の借用証文

写真120 漬場の借用証文

 また、漬木場が「近年ハ手寄近キ所五、六里計ノ内ニ漬打申候、……沖遠ク罷出猟仕候ヘハ」(佐藤徳次郎家文書)ともあることから、延宝五年の越前岬近辺では、五、六里以内が磯漬木場で、それ以遠が沖漬木場とされていたらしい。さらに、漬木漁を説明して、「扨又、漬と申者沖ニ而外字を釣企ニ而御座候、六月時分・大縄を拵海底へ砂表(俵)おもりに入、うけ(浮)ニハ桐木を仕、海ニ漬置申事ニ而御座候」(同前)とあるように、越前の外字漬木漁は網漁ではなく「釣漁」であり、「浮」には桐木が使用されていた。猛宗竹が使われるようになったのは近代以降のことである。
 近世の若狭の外字漁の史料は、元禄十二年神子浦漁師が隣浦の常神浦の者とともに、遠く山陰の隠岐浦郷に出漁に赴いたことを記したものが最も古いものである(大音正和家文書 資8)。天明元年(一七八一)七月、三方郡早瀬浦が日向浦の沖漬木場のさらに沖合に漬木を入れ、出入に及んださいの漬木漁場絵図がある。ここには、磯から沖へ四段階の漬木場が描かれている。これより後の絵図では漬木場は五段になり、磯の二段目は海岸より三里、三段目は六里、四段目は一〇里、五段目は一三里にもなっている。一三里のさらに沖合に越前の漬木場が描かれている(渡辺六郎右衛門家文書)。
 外字漬木漁は若越を代表する沖漁の一つで、全国的にもその始まりは早い方に属するものであろう。外字は六月から十月にかけて漁獲される大型の魚で、夏枯れの季節には大いに珍重され、塩を打たれて遠く山家の里にも運ばれた。



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