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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
     三 漁場と漁法
      沖漁の開発
 寛文十一年(一六七一)に越前丹生郡の宿・新保両浦と敦賀手繰網漁師と漁場出入があり、その時に丹生郡の浦々は外字漬木漁の「途地」を絵図に仕立て、すなわち浦ごとの漁区地図を作成した(佐藤徳次郎家文書、岡田健彦家文書)。しかし、「寛文雑記」の寛文五年の「両浜・立石浦網場争論」の項に「先年、新保沖ニ而之出入之時分」とあるように、敦賀沖手繰網船の丹生郡進出はそれ以前からあった。
 敦賀漁師町の沖漁は元和元年(一六一五)以前から盛んであり、「寛文雑記」には「当地・十五、六里沖ニ而小鯛并赤物釣申候、……春ニ罷成候へは敦賀・二十里沖へ罷出、手くり網を引」いたとある。この底延縄で釣られた王余魚は、元和元年に北庄から派遣されてきた肴奉行に独占的に買いあげられ、干王余魚に加工され北庄や江戸に送られたことは先にも触れたとおりである。また、この王余魚が敦賀町の魚屋に多く出回り始めたのが慶安三年頃であったという。王余魚は底延縄で釣り上げられるだけでなく、沖手繰網でも引かれた。
 敦賀漁師町の沖手繰網や沖底延縄が始められた頃は他浦にはこの漁法はなく、沖漁は敦賀漁師町の独占的漁であったため、漁場紛争は起らなかった。寛文五年の「両浜・立石浦網場争論」(「寛文雑記」)について、「右網場相論之儀、其国之近辺ニは猟場之定も可有之事ニ候処ニ、至惣海網場之定ハ有之間敷様ニ候」と、小浜藩も沖漁場の漁区定めに決め手がなかった。しかし寛文期に至ると、若狭湾一帯が沖漁の漁場となり、越前・若狭・丹後三か国に及ぶ広域漁場の管理・調整が必要な段階になっていた。
 慶長期には始まっていた敦賀漁師町の延縄と手繰の沖漁は、磯漁における高度な技術の蓄積の結果、開発されたものであり、一般的には漁労技術の発達の方向は、磯漁から沖漁へ、浮漁から底漁へ、小規模から大規模への道筋をたどった。



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