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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
     三 漁場と漁法
      両浜と今浜の漁具争論
 敦賀町を挟むように東西に両浜の漁師町と今浜浦がある。今浜は比較的新しい浦方である。両者は漁場が隣接しているため、漁場争論が繰り返された。
 寛永二十年(一六四三)、正保二年(一六四五)と相次いで両浜漁師町が新法の鰯網を立て、翌三年にも立てたために、肝煎は篭舎の刑を受けた。一方、二年に今浜が使用している苧の鰺網は新法であると逆に両浜から訴えられたが、郡内の浦方と敦賀魚町の証言を得て勝訴し、六こうの苧製の鰺網が許可された(西野四郎太夫家文書)。この頃から敦賀湾では磯海での「新規停止」が定着し、磯漁の秩序が固定化する。その結果、漁業発展の方向はいきおい沖漁へと向うことになった。
 今浜の苧網は小網であったのに対して、両浜の苧網は「四人の網」と呼ばれ、「四そう(艘)ニ而引被申候、……御所辻子之四人あミハ長さ百廿ひろ、今浜之あミの長さ三拾四ひろ半御座候」(西野四郎太夫家文書)とあり、両者の網には格段の技術的差があった。また、両浜は「昔・春ハ鯛縄・小縄・名吉あみ、夏ハ鯖なわ・夜つり・手くり、秋冬ハ小鯛なわ・おきてぐり、色々之つりを仕る」町方の漁師であるといい、網漁は鰡網や磯手繰網のほかに沖手繰も引き、釣漁は竿釣・小鯛縄・鯖延縄等をしているという(同前)。沖漁には、長さ七尋(約一〇・五メートル)の五板張りの天渡船という六、七人乗の大舟を操って、一五里(約六〇キロメートル)・二〇里の沖合に進出した。慶安元年(一六四八)頃の敦賀湾内の西浦は「私共ハ遠海のつりの猟は不仕、大あミたて申斗」(色浜区有文書 資8)と述べているように、今浜と同様湾内での大網漁が中心であり、大網舟以外の漁舟は二、三人乗の「サンパ」と呼ばれる小舟で、塩浦である東浦の柴舟と大差はなかったのである。



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