目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
     三 漁場と漁法
      家督網
 取調帳には記されていない鰤網(外字網)・烏賊網・飛魚網などの個人持の網について、延宝五年(一六七七)の「往古より定来ル浦之法并年貢等」(大音正和家文書 資8)によれば、表93のようになっている。

表93 延宝5年(1677)神子浦の網場

表93  延宝5年(1677)神子浦の網場
          注1 大音次郎左衛門の飛越の烏賊網は慶安2年の新規.
          注2 あじ網は飛魚網で,締め網の一種,打網は網で刺網.
          注3 「弥兵衛浦法破ニ付一件」(大音正和家文書)により作成.

 三方郡神子浦は、常神半島の先端の常神浦の西南に位置し、村高一六石余、家数は三〇軒ほどの小村であった。二側の村中持の大網と刀外字(庄屋)・長百姓五人持の家督網があった。大網については、天文十年の五項目よりなる「惣中大あミ御成敗の事」(大音正和家文書 資8)という村掟があり、また家督網は古くからの浦法に定められていた。取調帳の神子浦の項には鰯・鯖の二側の惣中網は書き上げられているが、家督網が記されていない。中世には浦刀外字を勤め、近世では庄屋を世襲した大音次郎左衛門家が四つの網場で三種類の一一網と、分家の大音掃部家が二網場で七網を持つなど、大音両家で村中の家督二六網の大半を占めた。ほかに、長百姓の久右衛門・惣兵衛・弥兵衛の三人が六網を持った。他の浦人は大網漁に水主として参加し、庄屋・長百姓がその経営の主体となるという中世的経営形態が強く残されていたようである。
 若狭湾の多くの浦々にとって、大網漁は浦の経済の中核をなすものであった。江戸中期のことになるが、敦賀郡浦底浦の村勘定に占める大網の比重をみることにする。浦底は立石浦の南にあり、敦賀湾に面する村高四八石余の、農業と製塩業・漁業を営む西浦の一般的な浦方である。享保十四年(一七二九)の家数は一八軒、うち高持百姓九軒・無高百姓八軒、寺一軒で、塩竈屋三軒・塩年貢七三俵余、舟九艘があった(「敦賀郷方覚書」)。同五年の村勘定は、表94のごとくであった。島手・山手・夫銀等の小物成銀三三八匁余に
対し、大網仕立銀は五九二匁で、最大の支出銀高となっているうえに、大網立ての飯米が五石支出されており、大網漁は村勘定に最大の比重を占めていた。しかし村勘定の負担は、直接には浦人に一銭も掛けず、「年中猟魚売銀ニ而払申ニ付、銘々割ハ不仕候」という処理方法がとられていた。小物成をはじめ村の諸入用がこの大網漁の収益で賄われる仕組になっていた。「惣中網」は浦人全員が参加して行われる漁であることの意義がここにあり、浦の経営が大網漁を中心に動いていたことが知られる。浦底浦は、まさに「網浦」といえよう。
表94 享保5年(1720)浦底浦の諸入用

表94  享保5年(1720)浦底浦の諸入用
       注) 「浦底浦諸事入用帳」(浦底区有
          文書)により作成.



目次へ  前ページへ  次ページへ