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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
     三 漁場と漁法
      大網漁の発展
 若狭湾における大網漁は最も重要な漁であり磯漁の代表的なものであるが、先にみた慶長七年(一六〇二)の「若狭国浦々漁師舟等取調帳」(桑村文書 資9)には、「大網」と記されたものは大飯郡小黒飯浦に一網あるだけである。しかし「惣中網」とされている「鰯網」「鯖網」「鰯鯖網」と記されているものもすべて「大網」である。個人の持網である「手繰網」や「外字網」に対して、村持の大規模な網は大網と呼ばれている。慶長七年には、若狭三郡四九か浦のうち二一か浦に合計四三側の大網があった。なかには遠敷郡小松原のように一か浦で六側を持つ例もあり、二側以上を有する浦は半数の一一か浦であった。
 大網の早い例としては、遠敷郡田烏浦の弘安元年(一二七八)の「由留木の大網」(秦文書)があるが、これは鮪を捕獲する立網とされている。また、三方郡の常神社の天文二年(一五三三)の棟札や同五年・十年の大音正和家文書(資8)の大網は、のちの大敷網の原型をなすものと考えられており、これらは全国的にみても早い大網の例であるという。
 中世末期の若狭には大網のほかに外字網・手繰網など幾種類もの網があり、それらの多くは季節ごとに交替しながら使用されていた。取調帳には、三方郡日向浦の網は惣中網として鯖・鰯網が二側書き上げられているだけだが、すでに天正十一年(一五八三)の同浦の沿岸には大網のほかに鰤網・烏賊網や飛魚網の九か所の網場があった。これらの網場はいずれも地先の磯漁場で、慶長七年にあった五艘の鮑舟もここで磯見漁を行っていた。このように磯漁場は経済的価値の高い漁場であり、天正期には一網場ごとに海成が課せられていた。年貢銭は鰤網や烏賊網は高くても五〇〇文であったのに対し、大網は倍の一貫文であり、年貢銭のうえからも大網漁は重要な漁であったことが知られる(渡辺利一家文書 資8)。
写真118 早瀬浦錬ケ崎大網寸法図

写真118 早瀬浦錬ケ崎大網寸法図

写真119 神子浦漁場絵図

写真119 神子浦漁場絵図

 越前の大網は若狭から伝来したものであろうが、永禄六年(一五六三)七月二十八日付「赤萩村惣代等詫状」(中村三之丞家文書 資6)に「大あミ」とあり、南条郡河野浦では十六世紀中ごろ浦惣掛りの大規模な網漁がなされていた。先にもみたとおり、同郡大谷浦では、天正十年に二石の網手米を納入しており、慶長三年には同浦のほかに近隣の池大良・糠の両浦でも一〇石の網手(海成)米が、河野浦では四三石二斗の大網米が課せられていた。十六世紀末には、南条郡の浦々一帯で広く浦惣中の大網漁がなされていたのである。
 半島の先端や岬近辺には鰯・鯖・鰤などの回遊が多く、これらの青魚を大量に捕獲できる大網は、この岬付近を最良の網場とした。しかし、水深があり、しかも潮流が強いので、太い藁縄を主材料とする当時の網をここに立てるのは容易ではなかった。越前岬の南に黒崎という小さな岬があり、これを挟んで新保・小樟の両浦がある。慶長十五年に丹生郡のこの両浦で大網の境争論が生じ、網の「切り流し」にまで及び、ついに北庄の奉行所に持ち込まれた結果、双方の「いびき」(居引か)の中間が境界と定められ、海岸には地境の石塚などを建てることで解決をみた(小樟区有文書 資5)。敦賀半島の先端に立地する敦賀郡立石浦は、同十七年の春、従来どおり大網を立てたが、敦賀湾奥の両浜漁師町と争論になり、北庄奉行所扱となった。その訴状に「当年ハ如此大あミ大分之儀相くわたて、借銀仕候ニ付而」(立石区有文書)とあり、この年に立石浦は多額の借銀で大規模な大網を仕立てている。従来よりは大規模なものであったため、五里も離れた両浜漁師町と争論になったのであろう。
 慶長期は、右のごとく越前の浦々にも浦惣掛りの大規模な大網漁が展開した時期であり、こうした漁獲技術の発展が、駄魚(上肴)の現物納を銀納に替えることを可能にした一つの背景でもあったと思われる。しかし、大網が技術的に今一つの進歩を遂げるのは、越前・若狭両国ともに、貞享・元禄期(一六八四〜一七〇四)のことであった(刀外字茂兵衛家文書 資3、上野山九十九家文書 資8、大橋脇左衛門家文書 資9)。



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