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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    二 浦々の負担
      諸浦の年貢と小物成
 これまで、海成・水主役・御肴代など貢租を種別にみてきたが、ここでは敦賀郡の三つの浦方を取り上げ、浦単位に年貢や小物成をまとめてみたい。
 沓浦は西浦の内浦にあり、塩浦兼網浦的性格をもつ半農半漁の一般的浦方である(表91)。村高は七二石余り、享保十四年には家数二一軒(うち寺二)・塩竈屋五軒・小舟一五艘であった(「敦賀郷方覚書」)。万治二年の沓浦は、新旧合わせて塩年貢は一一三俵余、塩木の山手銀や塩竈屋敷年貢米など塩生産に関する小物成が多い。漁業年貢は本島手銀三〇匁に対して新島手は二倍以上の七〇匁と駄肴銀七匁である。本年貢は免八割二分取で、村高七二石余であるから、六〇石ほどになる(山本宗右衛門家文書)。一九軒の百姓の持高はわずかに平均四石ぐらいにしかならず、塩業・漁業への依存度が高いことがわかるが、それへの負担は非常に重いものとなっている。 西浦の外浦にある立石浦は、西隣の白木浦と並んで村高のない、すなわち田畑をまったく保有しない独立の純漁村であり、多くの浦方の中にあっても特異な存在である。寛永十年の願書の冒頭に立石浦の村柄について、「在所嶋崎之義ニ御座候故、りょうのかせぎ斗ニて身上つなぎ申候」と記している。田畑ばかりか塩田もないので、本年貢も塩年貢もなく、海役・新島手・駄肴・肴米などの漁業貢租のほかは、地子と山手だけである。山手銀は塩浦に塩木を売ったり、薪・割木を敦賀町に売り出すことで捻出されたことであろう。漁業経営は困難であったようで、願書の中で以前には家数四八軒と猟舟一六艘もあったものが、承応三年には三分の一以下の一三軒と四艘になったと述べている(海安寺文書)。

表91 万治2年(1659)沓浦の年貢・小物成

表91  万治2年(1659)沓浦の年貢・小物成
                    注) 「沓浦年貢本役新役書上」(山本宗右衛門家文書
                       )により作成.

 小屋川の東にある漁師町は、中世の舟座の一つ河野屋座の系譜を引き、その航路に当たった東浦、すなわち敦賀湾の東半分での漁業権を独占していたが、諸浦と異なり田畠ばかりか山林さえもなく、町方に準ずる扱いを受け地子銀を納めた。さらに駄魚の銀を納めて町方の浮買座の手を通すことなく、西町にある魚屋へ直接に生魚を売る利権と、漁師の嬶たちが頭に盥桶を載せ「呼ばわり歩き」といわれた魚介類の敦賀町内における行商をする特権が与えられていた(表92)。こうした諸特権に守られて寛文七年には両浜は家数三〇九軒の大集落を形成していた。 一方、町方には、魚屋や四十物屋の海産物屋の市場や問屋のほかに、廻船業を専業とする町舟座(川舟座)と沖合や浦方に出向いて生魚を買い集める浮買座、冬期に敦賀湾岸で廻船が舟囲いをするさい轆轤を使って大船を上げ下げする轆轤屋などがあり、それぞれ舟や漁業に関する小物成を納めていた。

表92 正保2年(1645)敦賀両浜の小物成

表92  正保2年(1645)敦賀両浜の小物成
              注) 「今浜村・川向御所辻子鯵網出入覚帳」(西野四郎太夫家文書)
                 により作成.



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