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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    二 浦々の負担
      肴奉行と御台所肴
 しかし、北庄城下の魚屋の集荷体制は領主の需要を賄うには必ずしも満足すべきものではなかったことが、駄肴上納廃止の数年後に敦賀町に肴奉行を置いたことからわかる。その間の事情は「寛文雑記」に詳述されている。
 岡島壱岐守が敦賀の奉行であった元和元年に、小倉長右衛門が敦賀肴奉行に任ぜられ、北庄より派遣されて来た。肴奉行は両浜漁師町の肝煎たちを通じて、底延縄で釣り上げた王余魚を浮買座より安い「下魚米」(下行米)で買いあげ、干王余魚にさせ江戸や北庄へ送っていた。
 一方、敦賀町の浮買座の者たちは、両浜漁師が一五、六里の沖合で釣り上げた小鯛や赤物を沖買いし、北庄より来る武家の魚買いに売っていた。こうした新鮮で上物の魚が、藩主の家中屋敷お成りのさいの料理に出され、藩主の台所人を驚かせた。台所人よりの早急の詮議に、肴奉行は当家に二年前から奉公していた行蔵を肴横目に任じ、両浜漁師の沖売を監視させた。漁師の高級魚の沖売は以前からかなり一般化していたようである。行蔵は元和五年から寛永二年までの七か年間、肴横目役を勤めた。
 また、この役職中に今庄の御茶屋で、藩主の御膳に車えびがのったことがあった。御料理衆の調べで、その後敦賀今浜の磯手繰四二の網でとった物とわかった。御茶屋と今浜のあいだに入った敦賀町の庄司太郎左衛門は詫を入れてことなきをえたが、報を受けた肴奉行は、以後珍しい魚類があがれば、藩への「上肴」にせよと今浜の年行事に申し渡したという。

表90 松平忠直時代の魚値段

表90  松平忠直時代の魚値段
注) 「寛文雑記」により作成.
これらの出来事は、北庄の松平家中や今庄の御茶屋の買値の方が、藩主の御台所の買値(下行米)より高値であったことから発生したものである。藩主の台所は、従来の「上肴」や「駄肴」のような御菜の現物納的扱い方をし、今度も安値(下行米)をつけたから、漁師は敦賀浮買座や今庄の御茶屋の方へ、肴奉行の目をかすめ横流しする結果となったのであろう。
 松平忠直時代の敦賀における「公儀江其時分肴上ケ申直段」(下行米)は表90のとおりである。なお、漁師が上納する駄肴は代銀納になったが、藩が買いあげる肴直段は米払であった。この方が、日々を買米で過ごす漁師町の人々には比較的安定した値段となったからであろう。



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