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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    二 浦々の負担
      御肴献上から肴役銀納へ
 慶長期は、高麗水主役の反対給付としての漁業権の保証を得て、近世の漁業制度が形成される時期であったが、一方近世の政治や経済の拠点である城下町や湊町の建設・整備の時期でもあった。
 慶長六年越前に入国した結城秀康は、北庄城の築城と城下町の建設に着手し、同十一年に一応竣工させた。『国事叢記』は、その町の規模を町数一二六町、家数五一九〇軒、人数二万五三三一人としている。人数は町人のみで、武家人口等を加えれば四万人ほどであったと思われる。慶長末と推定される「北庄四ツ割図」(松平文庫)によれば、町人町の一角に東西に分かれた魚町が描かれており、家数は東魚町が三二軒、西魚町が三七軒あり、町庄屋の家もみられる。家の間口と奥行は、二間と九間から四間五尺と八間まである。これ以前の柴田時代の北庄城下にも魚屋町があったが、家数などは不明である(橘栄一郎家文書 資3)。
 魚屋は坂井・丹生・南条の三郡の漁村からの集荷では不足し、敦賀魚市場に大きく依存していた。短期間に巨大な城下町が出現しても、漁村側の生産体制がそれに対応しきれず、中世以来の伝統的かつ先進的漁業技術をもつ敦賀に大きな役割が期待された。
 漁業の負担には先述のように舟役・水主役があり、さらに領主階級の食糧として御菜魚代などの三種類があった。
 この御菜魚代について、敦賀両浜漁師の寛文五年(一六六五)の書上がある(「寛文雑記」)。
    一、肴米と申ハ越前朝倉金後様御代、朝倉太郎左衛門様江肴上ケ申所ニ、米ニな
       をり、則町升ニて御座候言伝承候、
    一、 駄肴と申ハ越前黄門様御代、北庄・御意ニて肴たてニ参、則北庄ニて肴買候
       てはかりニかけ上ケ申候を、銀子ニ直り申由承候、
 肴米は、戦国時代の朝倉教景(金吾)が敦賀郡司であった文亀三年(一五〇三)から享禄(一五二八〜三二)の間に始められた日々の郡司への上肴が、のち米に代ったものであるという。駄肴は結城秀康の代に始まり、北庄に現物の魚介類を上納し代銀を受け取ったが、のち銀納になったという。
 「北庄台所肴代銀納ニ付覚書」(色浜区有文書 資8)によれば銀納が始まった時期は慶長十八年である。前年まで敦賀郡の浦方からは毎年六駄の肴(魚)・魚介類を北庄の御城御台所へ納め、代銀を受け取っていたものが、越前中浦(丹生郡)の願い出により慶長十八年から福井藩領全域が代銀納になった事情がわかる。
 慶長十八年十一月の駄肴代銀納制への変更にさきだって、福井藩領諸浦の役舟数と代官別肴割日数の調書が作成されたらしく、その写と思われるものが『越前国名蹟考』に収載されている。それは「華陽老人謾録」に収められた丑七月朔日付「越前国諸浦御役舟之帳并御肴わり」(表88・89)で、華陽老人の言として「右の書付、坂井郡松陰浦何某方に所持の書付の由、慶長六年辛丑七月秀康卿初て御入国以前定りたる書面を写して持伝へたるなるべし、読解がたき所もあり、又落行もありと見えたり」とある。御給  所の存在や代官名とその担当地域からこの丑年は慶長六年ではなく、慶長十八年の「丑」である。

表88 慶長18年(1613)越前諸浦の役舟数

表88  慶長18年(1613)越前諸浦の役舟数
          注1 浦数・役舟数は原典のままとし,浦名は通用のものに改めた.(川向唐仁
             橋町)は推定.
          注2 『越前国名蹟考』により作成.



表89 慶長18年(1613)代官別の役舟・肴割数

表89  慶長18年(1613)代官別の役舟・肴割数
            注1 (高田六太夫)は推定.
            注2 『越前国名蹟考』により作成.

 さて、右の諸浦御役舟と御肴割には越前四郡の浦方として五八か浦が書き上げられている。うち坂井郡の安島等八か浦には役舟数や肴割日数などが記されていない。この八か浦はもと福井藩年寄今村盛次や多賀谷三経等の知行地の一部であったが、秀康の死後五年目に当たる慶長十七年に起た久世騒動の仕置の結果、翌十八年付家老として四万石で丸岡城に入った本多成重の知行地となった。したがって慶長十八年七月の時点では成重の給地であったため、本藩が舟役や肴割役を課さず浦名のみが記されているのであり、華陽老人が指摘する「落行もあり」には当たらない。
 越前には、すでに慶長期に二二九艘以上の大舟を有する浦方があることから、敦賀漁師町以外の浦方でもかなり漁業が盛んであったことがわかる。それは敦賀郡が月八日の肴割日数を負担したのに対して、丹生郡の浦方が一二、三日を負担し、敦賀をこえていたことからもいえる。越前の臨海四郡の浦数は五八か浦で、大舟に課せられる役舟を七艘以上負担する浦方は福井藩内に一三か浦を数え、うち九艘以上の浦は、敦賀郡の川向御所辻子町・川向唐仁橋町、丹生郡海浦・新保浦・宿浦・蒲生浦、坂井郡泥原新保浦である。
 また、後に述べるようにこの越前浦方の漁業技術の急速な発展、したがって漁業生産力の増大が同時に北庄の魚市場の集荷と販売体制の整備を促し、相互に発展を遂げていったと考えられる。だからこそ、駄肴献上をやめ、肴役銀上納に切り換えることができたのであり、またこの切換えは、北庄城下の魚の流通市場の整備によって初めて可能となった。



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