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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    二 浦々の負担
      高木舟橋と浦方
 九頭竜川(黒竜川)に舟を並べてつないだ舟橋が北陸道の高木村に設けられていたが、越前の浦方にはその「舟橋」のための舟役があった。
 この舟橋は、柴田勝家が越前を領していた天正六年三月、国中の浦々より四八艘の舟を徴発して、川幅一〇五間(約一九〇メートル)に一二〇間の舟橋を架け、福岡七左衛門など四人の橋奉行を置いて管理させたものという。織田信長の居城安土城への近道として、栃ノ木越の北陸道筋を改修したさい、国中から人夫を徴発したが、浦方の申出により、浦方には近江への人夫の代替に舟橋の舟役を申し付けたことから始まったとされている(『片聾記』)。
 ここでは舟橋は柴田勝家の創始とされているが、すでに戦国期の朝倉氏時代に「高木船橋」と日野川に「白鬼女船橋」があったことがみえるので(西野次郎兵衛家文書 資6)、舟橋は前代の踏襲であったことがわかる。なお、この舟橋は江戸時代を経て明治十九年(一八八六)に木橋に替えられるまで使用された。
 高木舟橋の記述は越前の地誌類に多くみられるが、最も古いものは貞享二年(一六八五)の「越前地理指南」で、その他『片聾記』『越藩拾遺録』『越前国名蹟考』『国事叢記』などがある。記述の内容はほぼ同様であるが、舟数に過不足があったり、浦名が欠落していたりして、不完全な記載が多い。体裁が最も整っているのは『越前国名蹟考』である。敦賀郡を除く越前の臨海の坂井・丹生・南条の三郡の浦方四二か浦の役舟数が書き上げられているので、三郡の各浦の規模を知る参考に『越前国名蹟考』中のものを一覧表にした(表87)。なお、この舟数は天正六年に制定されたものではなく、そののち浦の実情に応じて修正をみた舟数と思われる。

表87 九頭竜川舟椅の舟役数

表87  九頭竜川舟椅の舟役数
注) 『越前国名蹟考』により作成.

 舟橋の入舟役の具体的負担額について、承応二年(一六五三)十月十一日付「舟橋入舟銀ニ付書物」(宮川五郎右衛門家文書 資6)によると、この年より大谷浦は、舟一艘につき年間銀五五匁を、新造費も含めた維持・管理費として舟橋村徳兵衛に請け負わせた。前年は新保浦の清太夫が請け負っており、舟橋の者に肴物や礼銭をつけた給銀を支払って現地の者に代行させていたようである。今回から洪水  時の流出の場合の保証も含めて、徳兵衛が請け負うことになった。遅くとも承応の頃、現地の舟頭による入舟の請負体制ができ上がっていたようである。
 浦方の負担によって舟橋を維持・管理する舟役は浦方の財政を圧迫した。享保十年(一七二五)の高佐・茂原・厨の三か浦の舟役(二艘)は銀六〇〇匁、大水で破損の場合には一艘につき金三五両ほどの出費となったという(青木与右衛門家文書 資5)。舟橋は漁民にとって直接的利益とはならないから、なおさらに減免願の対象とされ、浦々にその嘆願書の控が多数残されているのである。



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