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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    二 浦々の負担
      高麗水主役と浦方の成立
 若狭三方郡の丹生浦は豊臣秀吉の朝鮮出兵や幕府の大坂城築城、さらに京極氏の小浜城築城等に舟役・水主役を負担した。丹生浦と同郡竹波村は中世以来網場争論を繰り返してきたが、近世には丹生浦が漁浦、竹波村が塩浦として定着した。しかし、竹波村はその後もたびたび漁業への進出を地先の海で試みている。寛永十八年(一六四一)の紛争のさい、丹生浦が竹波村の地先の海を「丹生浦之持分之海上」と主張したが、その論拠としたものは次のごとくであった(丹生区有文書 資8)。
  一、たちの(竜野)ゝ少将様(木下勝俊)御代ニ、高らい(麗)陣にも丹生浦寄海上之役
    として十六人之舟頭を高らいまて被召連候、竹波村からハ海上之持分無之しるしニ
    ハ壱人も出不申御事、
  一、京極様御代にもかやうニ竹波・偽りを申かけ候へ共、先き(規)のことく海上丹生
    浦之持分ニ被仰付候、就其大坂御普請ニも石ふね之舟頭海上之役として丹生浦・
    出し申候、竹波へハ不被仰付候、其外海上之御役・御城之御ふしん(普請)等彼是
    ニ数多御座候、
 公儀や領主への「海上之御役」負担の有無こそが漁業権の根拠と主張し、領主側もこれを容認し、丹生浦の勝訴となった。
 右の返答書で「高麗の陣」に丹生浦は一六人の船頭が動員されたとしており、また京極氏の小浜城築城にさいして慶長七年に行われた浦方の舟数や水主数の調書では、舟数二八艘・水主数八〇人であり、三人乗以上の船が徴発されたので、丹生浦は一二艘が応召されたことになる。一方竹波浦は二艘の舟を持っていたが、ともに一人乗の小舟であったため、石積船として動員されることはなかった。「高麗出陣」の水主役負担が漁業権の大きな根拠の一つとされているが、このことは若狭のみのことではなかったと思われる。
 越前敦賀郡の「高麗出陣」に関する史料として、「朝鮮軍ノ事」(「疋田記」『敦賀郡誌』)があり、そこには次のようにある。「疋田より小頭一人・夫三人以上四人出す、一人之扶持米弐人分被下、女房之扶持迄被下候、大谷殿惣人数千二百人、四番備なり、郡中より小頭共に三百人渡海仕と云り、浦辺は家数百軒に水主十人出すよし、十万石に大舟三艘・中舟五艘、一万石に付人夫三百人ト云」。浦方は家数一〇〇軒に一〇人の割合で、郡内から六七人の水主が動員された。のち船手の役を割符する時、高麗水主割と称して、この時の水主割を基準とした。敦賀郡では、船仲間を「船道」といい、町船・両浜(猟浜)・諸浦の三座があり、高麗水主割はおのおの二三・二二・二二の割合であった。町船と両浜の両座は中世以来の舟座で、川舟座・河野屋座と呼ばれたものであり、諸浦座はおもに西浦の漁舟であったので西座とも呼ばれた。三座のうち、漁業に従事したのは両浜と諸浦の二座で、町船座は廻船業を専門とした。
 朝鮮出兵は、文禄・慶長の二度に及んだが、ともに水主役徴発を直接に示す史料は在地には残存しない。しかしこの頃の越前浦方の年貢・小物成は、太閤検地帳と、慶長三年九月吉日付「越前府中郡在々高目録」(馬場善十郎家文書 資6)等により知ることができる。後者には浦方として南条郡の池大良(大良)・大谷・糠の三か浦と丹生郡の新保・宿の両浦が記載されており、南条郡の三か浦は村高以外の小物成や、さらに先高(文禄の村高か)が付記されている。以下、右の二点の史料を中心に南条郡の三か浦の村方と小物成の変遷を通して浦方の成立過程をみてみたい(表86)。

表86 越前の浦方の村高変遷と小物成

表86  越前の浦方の村高変遷と小物成
  注) 天正12年の村高は「大谷吉継府中郡知行分惣目録」(宮川源右ヱ門家文書 資6)により,他は「越前府中郡在々高
     目録」(馬場善十郎家文書 資6)により作成・

 丹羽長秀の天正十二年(一五八四)の検地で、池大良・大谷・糠の三か浦の村高は、二四石余・四三石余・一六石余とされ、「海成」(網手米)は三か浦とも二石であった(宮川源右ヱ門家文書 資6)。
 「越前府中郡在々高目録」の村高はおのおの三五石・五三石余・二六石余と増え、海成は三か浦とも五倍の一〇石となり、新たに舟手米が舟数に応じて課せられた。これは大舟一艘につき米三石一斗ずつで、この時池大良・大谷・糠の各浦には四艘、九艘、一〇艘の大舟があったので、それぞれ一二石四斗・二七石九斗・三一石であった。
 慶長三年の検地で、村高はおのおの四三石余・七二石余・二八石余となり、三か浦一律に新網手二三石六斗が加えられ、山手も新設された。なお、天正十二年の村高に小物成の一〇石ほどを加えたものが「先高」であり、慶長の村高は天正の村高の約一・七倍になっている。
 こうして村高をこえるほどの小物成が、とくに糠浦は村高二八石余に対し倍以上の六九石余の小物成が課せられることになった。高麗出陣にかかわって、村高が書き上げられ、網手や舟手の増徴・新設が行われたが、近世の貢租体制は基本的にはこの慶長三年の段階で成立し、以後の変化は少額の新税が加わる程度であった。こうして、近世の漁村は朝鮮出兵体制の実現の過程で、その大きな枠組が作り上げられたといえよう。



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