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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    二 浦々の負担
      高い年貢率
浦方には漁業にかかる浦年貢が課せられ、これを納入することで領主から漁業権が保証された。漁業にかかる貢租としては海成・水主役・御菜魚代などがあり、塩浦には年貢塩があった。海成は網手や島手、水主役は舟手、御菜魚代は御肴代などとも呼ばれた。
 福井藩三二万石の天保十三年(一八四二)の「御収納の次第書」(「福井藩役々勤務雑誌」松平文庫)に、「越前国の儀は無類の下免地の由申伝へ候て御領分押ならし候て、三ツばかりの免と相成候故、……尤も御国の内にて一つに不足所も、七ツ・八ツの所も有之、一様には無之候」とある。福井藩の免(年貢率)は三割、すなわち村高に対して三〇パーセントが普通であるが、一割から八割の差があると述べており、安政五年(一八五八)の平均した免は二割九分四厘一毛八糸(二九・四一八パーセント)であった。
 それに対し福井藩領の越前三郡二九か浦の平均免は四割五分六厘であり、福井藩全体の平均免三割を大きくこえている。丹生郡の一二か浦の平均免は五割二分八厘で、坂井・南条の両郡は四割四分と三割四分四厘である(表85)。なかでも、丹生郡の茱崎・蒲生と坂井郡の松蔭・蓑の四か浦の免は十割にも達し、次いで坂井郡の泥原新保浦は九割五分であった。里方では南条郡赤萩村の七割七分が最高の免で、次いで同郡大桐山中村と今立郡岩本村の七割五分である。これらの村は、それぞれ石灰・焼灰・紙などの商品生産を行う村々で、米穀生産を主とする一般の農村とは異なっていた。
 浦方のなかにも、南条郡大良浦や坂井郡石橋・白方・山岸の各村のよう

表85 福井藩天保13年(1842)の年貢率

表85 福井藩天保13年(1842)の年貢率
    注1 足羽郡に1村,吉田郡に3村年貢率の記載のない村があ
       るので対象にしなかった.
    注2 改出も年貢率がちがうので1村と数えた.
    注3 『福井藩史事典』により作成・

に免二割以下の低免の浦や浜があるが、これはこの頃ほとんど漁業を営んでおらず、実質は農業が主の里方であったからである。
 南条郡大谷浦の慶長六年(一六〇一)から万治元年(一六五八)の一六通の年貢皆済状の平均した免は七割八分六厘(向山治郎右ヱ門文書・宮川五郎右衛門家文書 資6)、丹生郡大味浦の慶長六年から元和四年(一六一八)の一六通の年貢皆済状のそれは七割六分九厘(刀外字康隆家文書 資5)、同郡宿浦(宿区有文書 資5)の慶長十八年の年貢算用状では免は十割であるなど、近世初期の浦方の免は後期より格段に高かった。
 このように浦方では耕地が少なく、しかも貢組も高率であったため、農業経営では採算がとれず、農業と漁業をセットにした高割の制度が考案され、貢租負担の公平化が図られた。元和三年の「大味浦脇百姓小割之帳」(奧田登章家文書)にその典型的な例がみられ、数人の舟持(親方)からなる面百姓の所有する五二石余の村高のうち、三三石ほどを二一人の脇百姓に二石前後配分し、これを耕作させ村のうちで年貢を負担させることで猟舟に水主として乗り組む権利を与えていた。農業ではなく、漁業や廻船業の収益で六〇から一〇〇パーセントの高率な年貢と漁業税を納入していたのである。こうした高割の例は、後期の丹生郡の海浦・小樟・大樟、南条郡の河野の各浦に広く見られる。海浦や河野浦では、まったく平等に耕地が分割された時期もあった(岡田健彦家文書、右近権左衛門家文書)。もっとも、この平等割は書類上のことで、段々畑の複雑な地形を均等に分割することは技術的にも不可能であるから、村持の大網漁などとの関連で作り出された方法であろう。



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