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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    一 浦々の構造
      寛永八年の水主改
 若狭三郡の寛永八年分の「械葉銀」(械役銀・櫂役銀)の集計が桑村文書(資9)にあり、舟数もわかる(表84)。先にみた慶長七年の取調帳の舟数等と比較すると、総舟数は三〇年間に七六九艘から九三四艘へと増加している。大飯郡が一八艘減少したのに対し、遠敷郡は一五五艘と大幅な増大をみた。三方郡は二五艘の増加にとどまった。漁浦が多い大飯・三方両郡の変動がわずかであったのに反し、小浜湊を抱える遠敷郡が五五パーセント増え、三〇年間に増加した一六二艘のほとんどが小浜湊で占められていた。

表84 近世初頭若狭の郡別舟数・水主数の変化

表84  近世初頭若狭の郡別舟数・水主数の変化
       注1 *には+αがさらに含まれる.
       注2 慶長7年の舟数は作成者が集計した.
       注3 「遠敷郡浦々船数帳抜書」(桑村文書 資9)などにより作成.

 水主数をみると三郡で二〇九三人から三〇一一人へと四四パーセント近い増加率で、舟数の増加率二一パーセントの倍以上となっている。舟数の減った大飯郡さえ水主数は増えている。それは漁舟より、廻船において顕著な増加をみたためと思われる。小浜湊の豪商で水主役を免除されている四人の持舟についてみれば、そのことは明らかである。田中有嘉舟八人乗、吹田道祝船二〇人乗、塩屋甚助船一九人乗、同孫右衛門船二五人乗のごとくであり、慶長期の商舟の「はかせ舟」が六人乗であったのに比べれば、格段の差異であり、七、八〇〇石から一〇〇〇石積級の大型廻船の出現を認めることができる。
 大型廻船の新造だけでは積荷の増大に追いつかず、小浜町の三艘のはがせと下竹原・小松原のはがせ舟二一艘がおのおの水主を一人増やしてこれに対応していた。しかし、これらのはがせ船は若狭湾付近を活動範囲とするものであくまで大型廻船の補助的役割を担ったにすぎなかったと思われる。
 豪商の大型廻船は水主役の免除を受けるなど小浜藩から優遇されたが、それは和田通舟や三方郡の湖辺の浦や遠敷郡西小川浦の小型の渡舟にも及んだ。大坂を中心に全国市場が形成されていくなかにあって、敦賀とともに日本海側の拠点湊としての機能を有する小浜湊をもつ藩が、運送船の増加策を積極的にとったのは当然の施策であった。
 寛永十七年の「小浜町家職分ケ」(『拾椎雑話』)によれば、中世的廻船である「はかせ」の舟主は二人に減り、代って新式の「舟持」が四八人に増えている。小浜の漁師町や浜浦町などに住んでいた「水主」は一六七人であった。同八年の遠敷郡の水主一五一八人のかなりの者が小浜町の廻船の舟乗であったろうから、郡内外の多くの漁村から漁師の次・三男が舟乗として乗り組んできたと推測される。また、小浜町の漁師の人数が五〇人とあり、西津漁師町に比べてその規模の小ささが知られる。彼等は磯見漁師となっていたからである。
 右の寛永期の二点の史料から次のような過程がみえてくる。小浜町が流通の中枢を握るに至った結果、それまで田烏や泊、西津の浦々がもっていた流通の機能は次第に失われ、たんに補助的役割を担うにすぎない浦へと変化していく。こうして近世的舟道の秩序、すなわち直接生産を担う浦方と、流通・販売を担当する町方の地域分業形態が形成される。このことは敦賀町を中心とした敦賀郡でも同様であり、その時期は、天正期(一五七三〜九二)・慶長期に始まり寛永期におおいに伸展し、寛文・延宝期に完成をみる。



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