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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    一 浦々の構造
      内浦と外浦
 西津漁師町の北にある浦方は、江戸時代には内浦と外浦の二つの組に分かれていた。内浦は内外海半島の内湾である小浜湾内の甲ケ崎村から泊浦までの二か村と四か浦のほかに、半島の外湾にある西小川・加尾・宇久の三か浦の計九つの村と浦からなり、外浦は田烏湾の奥にある阿納・犬熊・志積・矢代・田烏の五か浦を指した。
 新小松原の北にある甲ケ崎村は、中世以来製塩の盛んな村で、慶長七年の時点で二七艘の舟と水主一〇〇人がおり、六人乗の舟も七艘あったから塩業のみの村ではなく、広く漁業も営む漁村でもあったと思われる。
 西津の漁師町の山手に北塩屋村があり、この北塩屋の塩田が潰されてそこに漁師町がつくられた。そのためこの地の塩商人は小浜町の塩屋町へ移り、製塩業は甲ケ崎が受けもつことになり、甲ケ崎は塩浦の性格をいっそう強めてゆき、一方、甲ケ崎の漁業は西津の漁師町に吸収されていったのである。
 こうして、小浜町とその周辺の浦々は、築城と城下町の町立て・町並整備を機に中世後期以来徐々に進んできた地域分業をいっきに進めた。甲ケ崎は、自浦の海面のみを利用するだけの塩浦となり、南隣りの西津漁師町と区別されるなど、近世的浦の秩序が形成されていった。
 のちの内・外の両浦方一四の浦と村のうち、慶長七年に阿納尻村と若狭浦の二か浦は、村方で一艘の舟も持たず、取調帳にもその浦名はみえない。堅海浦は惣舟と四人乗の小舟一艘、仏谷浦は惣舟と一人乗・三人乗の小舟二艘を持つのみで、惣舟は人と物資の運送に当たるもので漁舟ではないから、この二か浦も村方的性格が強い。内浦の臨海村九か村のうち四か浦は行政的には浦方に属しても生業は村方的であった。それは小浜湾内の網漁権を西津漁師町が掌握していたことに起因していたのであろう。ただ、小浜湾に面する内外海半島の先端にある泊浦は一人乗の小舟のほか、四人乗の中舟を七艘持っていた。この中舟はその地理的な位置を利用して湾外での鯖などの釣漁に用いられたと思われる。田烏湾の西北にある西小川・宇久・加尾の三か浦は惣中の鯖網漁を主要な漁とする小漁村である。なお、宇久浦は外浦の矢代浦の分村であったため自前の網場が持てず、のちに他浦の海を請けて網漁を行っている。
 外浦の五か浦は鎌倉以来の伝統をもつ若狭の典型的な浦方で、田烏湾に続く内外海の外湾にある内浦の西小川・宇久とともに、中世的伝統をもつ刀外字がおり、小浜や西津漁師町のように六人乗の大舟や個人持の手繰網はもっていない。町方漁師の漁業権の埒外にあって、近世的秩序に組み込まれるのが遅く、中世的形態を多分に残している浦々であった。
 小浜湾外で最大の浦が田烏浦で、村内は須浦・谷及・釣姫などの小村からなる北田烏と本田烏である南田烏の二地区に分かれていた。三四艘の半分以上に当たる二一艘が一人乗の小舟で、五人乗舟が最大でその数は一艘である。舟持は二艘持が六人、三艘持が四人いる。うち四人乗と一人乗の二艘を持つ幸阿弥大夫舟の水主役は免ぜられている。彼は外浦に関する藩の舟役人であったのであろう。田烏浦には三方郡の西浦より魚荷が持ち込まれ、鳥羽谷抜で熊川宿へ登せられ、近江や京へ運ばれることがあり、京極氏の時代には田烏に奉行を置いてこれを取り締まった(千田九良助家文書 資8)。幸阿弥大夫はこの奉行を勤めたのであろう。
 広い海をもつ南北両田烏は惣中の鯖・鰯網を四側を持っている。ほかにも何種もの網が中世以来あったことが知られているが、鯖・鰯の惣中網のみが取調帳に書き上げられているにすぎず、小規模な個人網は省略されていたものと思われる。網は季節的に使用されるし、また同じ網場を交替で利用するなど複雑に運用されるので、網数だけで網漁の水揚量などの比較はむずかしく、網数は漁業規模のおおよその目安になるにすぎないのである。



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