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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    一 浦々の構造
      西津の漁師町
 城北にある西津は、鎌倉初頭からその名が現れる。西津の南部に大湊・小湊の両村があり、江戸時代には農村となっていたが、室町初期には湊として栄え、応永十五年(一四〇八)南蛮船(パレンバン)が象一頭の進物を運んだ湊として有名である。この大湊の機能は戦国時代には南隣りの小浜湊に移ってしまい江戸時代には湊がつく地名だけが残った。この大湊の浜手に小松原の漁村ができた。慶長六年に竹原の地に築城が開始され、その地にあった漁師村は移動の予定でまだ移動先が決まっていなかったため、取調帳には遠敷郡の最後尾に書き上げられている。竹原は六人乗の七艘を含めて二一艘の舟と水主八一人がおり、惣中の鰯網を持ち、また廻船のはかせ舟と栄螺取舟がそれぞれ二艘あり、二艘の舟持が一人、三艘持五人、四艘持一人と七人衆の舟元のいるかなり大規模な漁村であった。西津の一角に移住して下竹原と呼ばれるようになったが、そこでの網立ての権利はなかった。
 小松原は城と西津の間にあって若狭最大の漁村であった。六人乗舟一四艘を含む五〇艘の漁舟を持ち、二艘持五人、三艘持以上九人の大舟元がいた。小浜近辺で唯一惣中網を有し、しかも六側の鰯網があったし、個人持の手繰網が一三網あった。しかしはがせの商船はなく、小浜の町方舟とは異っていた。築城の進行によって小松原は西津の北へ移住させられたが網漁の利権は失われることはなかった。
 西津は大湊の浜手にあった漁村であり、舟数は一一艘、水主は四九人、六人乗舟が五艘あったが、竹原や小松原と違い複数の舟を持つ舟元はいなかった。もと小松原のあった地と西津の地に京極氏から酒井氏の時代にかけて、堀屋敷や西津侍屋敷が造成され西津町となった。この侍町の町立てによって西津と小松原の一部が下竹原の北側に移転し新小松原となった。三次にわたる漁村の移転により城北の地に若狭最大の漁業基地が誕生し、西津漁師町三か町を形成した。それは寛永末年のことであろう。



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