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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    一 浦々の構造
      湊町小浜と魚市場
 慶長六年から、旧来の後瀬山城を廃して平城(水城)の小浜城と城下町の建設が開始された。翌七年の取調帳は、まさに中世的浦から近世的湊町と漁師町、さらに諸浦(漁浦・塩浦)へと地域分業の再編期の状況をよく示す史料である。
 小浜湾の東部に流れ込む北川・南川の両河川の川口付近に、小浜・小松原・西津・甲ケ崎と竹原の五つの浦が連続してあり、これらの浦は中世期にすでに後瀬山城と城下の居館町と深くかかわって成立していた。慶長七年六月の時点では、小浜をはじめ右の五つの浦は、城下から遠隔の阿納・犬熊・宇久・加尾のように伝統的な「浦」の呼称が付けられておらず、これらの浦とは区別されていた。それは、集落の背後に田地を保有する村方が城館町とのかかわりで海へ進出し、漁労や廻運に従事し始めた新興の浦と意識されてきたからであろう。
写真117 西津付近(「小浜絵図屏風」)

写真117 西津付近(「小浜絵図屏風」)

 この五つの浦は、舟一六四艘と水主六四九人を擁する若狭の最大の船舶の基地であったが、そのなかで小浜は特別に「小浜分」と記され、他の四つの浦とも区別されて遠敷郡の筆頭に書き上げられている。城西に位置する小浜は舟五六艘と水主二二三人を有し、城北の小松原と並ぶ規模を誇ったが、城北の四つの浦が漁師町的性格を強めていったのに対し、城下の他の町々とともに町的性格を帯びていった。すでに慶長七年の時点で、三人乗から六人乗の商舟が二九艘あり、和田通舟二艘とともに、漁舟とは異なる商品や積荷運搬の舟が多数あり、なかには西国型廻船である「へさい」(弁財)舟も一艘あった。なお小浜町には、和田通舟を所有する桑村家のように水主役や舟役の免除の特典を受ける舟持商人がおり、水主総数二二三人のうち三四人の水主役が彼等のために免除されている。
 特権的豪商や大商人だけが小浜の舟持ではなく、栄螺舟や手繰舟の漁舟もあった。手繰網は八つあり、中世的惣舟も二艘残っていた。ところで、他浦には見られない三人乗の「追掛舟」が三艘あり、これは魚の仲買人のもので、漁場近くや浦方に直接出向いて生魚を購入する町方にのみ許された舟である。
 京極氏の慶長六年から始まる小浜城の築城は、同時に城下の町並整備をともなうものであった。城北の西津地区に本格的な漁師町が町立てされるに当たって、城西の小浜町では東西の両組に分れていたが、その西組の浜側に漁師浦町(万治二年〈一六五九〉より漁師町)と浜浦町の両町が近接して町立てされる。しかし小浜の漁師浦町は栄螺とりなど海磯稼ぎをするだけの小規模な磯漁師と位置付けられた。また浜浦町には水主の多くが住んだと思われるが、彼等は魚介類をとる漁師ではなく商船の舟乗衆であったと思われる。
 小浜の町は、海産物の集荷業者や問屋・加工・小売業者等の商業関係者を東組の浜手の一か所に集めて、魚町・塩屋町・市場町とし、また磯漁師と舟乗を西組の沿岸部に住まわせ、漁師浦町・浜浦町とした。廻運業者とその乗組員も含め、魚商関係の流通機能を城下町小浜に集中させたのである。



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