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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    一 浦々の構造
      慶長期の若狭の浦々
 桑村文書に、慶長七年の「若狭国浦々漁師船等取調帳」(資9)がある。これは、京極氏が小浜城の築城のため、石材運搬に浦舟を徴用する目的で調べ上げたものである。取調帳には小浜湊をはじめ若狭三郡の四九浦を浦別に舟の大きさ(乗組員数)と所有者名、さらに網の種別と数などがまとめられており、この帳面は全国的にも希有な史料といえる。 写真116 若狭国浦々漁師船等取調帳

写真116 若狭国浦々漁師船等取調帳

 右の取調帳を郡ごとの表にまとめたのが表82・83であり、この表から近世初頭における若狭の浦々の諸相が明らかになり、それはいくつかの型に分類することができる。

表82 慶長7年(1602)若狭の舟数

表82  慶長7年(1602)若狭の舟数
       注1 郡の合計は作成者による.史料に記載された郡の合計は遠敷郡の1〜2人乗が129,
          3〜5人乗が111,6人乗が43の合計283,三方郡の1人乗が121,2人乗が81,3〜5人
          乗が61,6人乗りが36の合計299,大飯郡の1〜2人乗が116,3〜4人乗が45,6人乗が
          35の合計196である.
       注2 「若狭国浦々漁師船等取調帳」(桑村文書 資9)により作成.



表83 慶長7年(1602)若狭の役舟・水主・網数

表83 慶長7年(1602)若狭の役舟・水主・網数
    注1 郡の合計は作成者による.
    注2 「若狭国浦々漁師船等取調帳」(桑村文書 資9)により作成.

 右の書上の浦々には、多数の商船を持つ小浜湊から、一人または二人乗の小舟があるだけで、水主役もなく大型の惣中網もない、三方郡松原村や大飯郡の長井・岡津の村々のような、浦方の範疇に入れにくいものまで、多様な浦が含まれている。中世の浦の役職である刀外字の名称が残っている浦もあり、近世的秩序が形成されつつある小浜湊やその周辺の浦方もあり、両者の間には時期差を感じさせる浦々の姿がある。また時期の差は、湊町・漁村・塩浦の別、すなわち地域分業が明白なものから、三者が混在している浦の姿とも重なってみえる。
 若狭三郡には、一人から七人乗の舟が七六九艘あり、水主数は二〇九二人であった。七六九艘のうち六人乗の大舟が一一七艘あり、このうち五一艘が「はがせ」と呼ばれる商船であったが、大飯郡にはこの「はがせ」舟はなかった。渡舟は和田通舟を含めて九艘あり、小浜・和田間のものと、三方郡の浦方と上湖(三方湖)畔の鳥浜間を連絡するものとがあった。鮑舟は三方郡日向浦に五艘あり、栄螺舟は遠敷郡小浜と竹原におのおの二艘の計四艘があり、若狭にも磯見漁をする海士(海女)がいたことが知られる。また惣中舟を持つ浦が一〇か浦ほどあり、この舟は村の年貢米や塩のほか諸雑貨を運搬する小舟で、中世に刀外字舟と呼ばれたものである。
 なお、大きな浦の舟持のなかには、二艘以上を所有する者も多く、三艘を持つ者が、三方郡小川・常神の両浦に各六人、遠敷郡小松原村  に九人、竹原村に六人等で、三郡で六六人となる。水主を七人以上持つ者が三郡で七八人いる。これらの船主は雇いの水主を持つ専業の漁師であり、専業漁師の多くいる本格的漁村が若狭には多数あったことが知られる。
 この取調帳には、魚網の数も浦別に書き上げられている。三郡で一〇一の網があり、うち鯖や鰯をとる惣中網が四三側を占める。この惣中網は二三か浦で持っているが、なかには小松原村の六側、田烏・世久見両浦の四側のように多数の網を持つ浦もある。鰯・鯖の網は大網と呼ばれる大規模な村網であるのに対して、外字網と手繰網は小規模な個人持の網であった。
 磯海の底を引く手繰網は三郡に四九網あるが、高浜に二五網、小松原に一三網、小浜に八網、常神に三網があった。この網はのちに沖手繰網が出現してからは磯手繰網と呼ばれるようになった網であり、大網のほかにこの手繰網を持つ浦々はいずれも最も先進的で、若狭の漁村を代表する大規模な漁村であった。



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