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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    一 浦々の構造
      若越の浦と浜
 近世の集落は、侍と商工業者である町人の住む城下町に代表される町方と、農林漁業に従事する百姓身分の人々が住む在方に二分されていた。在方はさらに、農林業等土地をおもな生産の対象とする村方と、海に経済活動の場を求める浦方に分かれた。しかし、臨海の村々がすべて浦方であったわけではなく、海に背を向け村方として生きた村もあり、または後に海への進出を試みた村もあった。また海へのかかわり方も様々で、主とする漁法等により浦方は釣浦・網浦・磯見・海士浦・渡海浦・塩浦等の別があり、海をもつ小浜・敦賀の湊町には漁師町や舟町・魚町・市場町などができた。これら諸浦の分化には、地理・地形等の自然的条件のほかに歴史・政治等の社会的条件が作用した。しかしそれらの条件は絶対的ではなく、技術の開発、社会状況の変化などによって大きく変わることもあり、そういう意味でまさに歴史的存在であり、時代とともに変化した。
 集落が形成される海岸の地形には、浦と浜がある。浦は山地が海へ出張った崎と崎の間にできる小湾を指し、前面の海は深く、釣漁や建網・敷網漁が盛んである。これに対し、浜は越前の三里浜や若狭の高浜などのように砂地の平坦で広い海岸であり、浅海が続き地曳網漁に適しており、また製塩業が盛んでもある。概して越前の敦賀や若狭はリアス式海岸が発達し、また京畿に近いこともあって浦集落が早くから成立した地域となっている。南条郡以北の越前海岸は単調な直線状の海岸線で、坂井郡の三里浜を除いて、全体が岩石海岸で浦の地形はきわめて小規模である。小川のある水利に恵まれた場所に集落が営まれるが、前面の海は深い。敦賀湾に近い南条郡の海は比較的浅く、早くから網漁が発達したが、越前岬付近の丹生郡の海は深く、海流が速く大規模な網漁は困難で釣漁が盛んであった。
 若越の海岸は沈降性のリアス式海岸と断層による深海の岩石海岸・遠浅の砂浜海岸と変化に富み、魚族の種類も豊富で、沿岸には海草・貝類の資源も多い。京畿に近く市場に恵まれていたから早くから漁業や塩業さらに廻船業が栄えてきた。しかし、慶長期(一五九六〜一六一五)から寛永期(一六二四〜四四)には絶頂期を迎えた若越の浦々も、大坂・江戸を中心として全国市場が整備・成熟期に入る寛文期には、加賀以北の日本海沿岸の漁業が発展をみせ、また瀬戸内の入浜塩田の発展により、若越の漁業・海運・製塩の各産業は、相対的にその地位を低下させることになる。



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