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 第三章 近世の村と浦
   第四節 越前・若狭の浦々
    一 浦々の構造
      近世の漁村
 近世になって、全国的に水産業は自立した産業として発展をみせるようになった。天下統一がなり、城下町をはじめとする諸都市が成立し、それが農業生産力の増大を促した。都市の食料、農村の肥料としての水産物の需要の増加は、各分野の漁労技術、とりわけ各種の網漁を発展させた。需要と生産の増大は流通機構の整備を促し、十七世紀後半には都市において問屋制の成立をみるようになった。
 若越の水産業が一大消費地である京畿に近い地の利を得て大きく発展し、重要度も高かったのは、全国市場が成立する寛文・延宝期(一六六一〜八一)よりも以前のことであった。
 ところで、若越の「浦」と「村」の違いや特色を「正保郷帳」の村・浦の数や高でみると、浦数は五九であり、越前一二郡の浦と村の総計一三九三に占める比率は四・二パーセントにすぎない。ただし、浦がある敦賀・南仲条・丹生北・坂南・坂北の五郡の総村数七〇三か村に占める比率は八・四パーセントになる。若狭三郡の浦と村の総数は二五一か村であり、そのうち浦は二一か村で、全村の八・三パーセントを占めている。若狭の三郡はいずれも浦をもち、浦数の比率は越前の倍ほどになっており、「越山若水」は言いえているともいえよう(表80・81)。

表80 越前の浦と村

表80  越前の浦と村

表81 若狭の浦と村

表81  若狭の浦と村
注) 「正保郷帳」(内閣文庫蔵)により作成.
   注1 「正保郷帳」(松平文庫)により作成.
   注2 平均村高には小物成を含まない.

 次に、浦と村の村高を比較すると、越前の村高の平均は四八八石余で、うち村が五〇一石余、浦は一九三石余である。浦の高は村の三八・五パーセントである。なお、越前敦賀郡の敦賀半島の先端にある立石・白木の両浦は、まったく村高のない「無高」の村である。若狭の村高の平均は、三四〇石余で、うち村は三六四石余、浦は七五石余であり、浦の高は村の二〇・六パーセントにすぎない。
 以上、正保三年(一六四六)の若越二六四四か村中浦は八〇で、その数において三・一パーセント、高においてはさらに低く一・七パーセントを占めるのみである。しかし浦方が担う役割や地位は、決してこの数字どおりではない。



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