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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    四 山村の生活
      雪崩の記録
 文化五年(一八〇八)の十一月十二日・十三日に、大野郡下山村岡畑を襲った雪崩の記録が残されている(清水孫左衛門家文書)。これによると十二日に一五軒の家が押し潰され、うち一〇軒が全壊、男女五八人と馬五匹が圧死した。さらに翌十三日に再び雪崩に襲われ、人的被害はなかったが残り一一軒が全壊半壊となり村は壊滅した。表79はこのうち十二日に圧死した四家族二五人分をまとめたものである。
写真115 雪崩の記録(部分)

写真115 雪崩の記録(部分)

 大野郡の山間部の宗門人別帳には傍系家族や譜代を含めた大家族の記載がみられるが、表79からは(2)(4)のように傍系家族や厄介は同一家屋内に同居していたこともわかる。


表79 被災者の衣類および家等一覧

表79  被災者の衣類および家等一覧
 (1)の水呑太平治には奉公人三郎も同居している。衣服はハレの日ではないので、ふだん着であり木綿と布のみ、染めは浅黄(緑がかったうすい藍色)のみである。厳寒の季節であるのに着衣の枚数は多くない。「継之木綿」はツギハギの木綿か、それともつずれ織、裂織のことであろうか。「さき織」はさっくりのことで、さしことともに全国的に見られるものであり、おもに労働着として着用されていた。
 家屋は間口より奥行の長い構造であったこと、風呂のある家もあり、お互いにもらい風呂をしていたこともわかる。雪隠(便所)は必ず各家にあり、しかも別棟となっているのは山村・平野の村に共通している。これは下肥が肥料として重要視されていたからである。
 (2)の百姓三郎兵衛は馬二匹を飼っていたが、これは農作業だけでなく、山稼ぎなどの運搬用にも使役されたのであろう。また廐肥は肥料として重要な役割を果たしていた。宝暦九年(一七五九)の「諸上納明細記」(古瀬賀男家文書)によると、郡上藩領穴馬二一か村には家三二四軒、馬八六匹、牛二九匹とある。同じ山村でも今立郡池田郷では家畜はほとんど牛であった。
 さてこの記録によると、(2)の百姓三郎兵衛の息子作兵衛は仕事をしまい、「風呂」からあがって一服しようとしたとき雪崩に襲われて気絶し、正気に返った時には家族は全滅していた。かろうじて隙間のあった柱のかげにかがんで、何度も何度も声を限りに助けを求めたがいっこうに通じない。ようやく二、三日たってから大勢の人夫がやってきて掘り出し助けてくれた。そのとき聞いたことによれば二、三日と思ったのに実に九日間も埋められていたとのことであった。
 (3)の与右衛門は、この日仕事をしまい隣家へ「もらい風呂」にいったところ、なにか怪しい音がすると思ったとたん雪崩に襲われ隣家は押し潰された。隣家の人々とかろうじて脱出し我家にかけつけると、我家はすでに雪崩の下であり、必死になって掘り出そうとしたが、雪が深く手の施しようもなくついに家族は全滅した。
 この表にはないが、又四郎は除雪を終えて家に入り、わらじのひもをほどこうとしたとたん衝撃で気を失ってしまい、気が付いた時には家具のかげの狭い隙間に閉じ込められており、十三日朝、村人たちにより救出された。又四郎の家族は全員圧死していた。一〇軒のうちで運よく助かったのは四人にすぎない。しかもそのうち一人は下半身大火傷という悲惨さであった。なお残りの五軒も全壊半壊となったが、さいわい雪が浅く死者は出なかったのである。
 この雪崩に襲われなかった一一軒の人々は、驚きあわててわずかの身の回りの物を持って字「おきで」へ避難したが、翌十三日戌の刻(午後八時頃)またもや大雪崩が襲い一一軒が全壊半壊してしまった。十二日の雪崩は字「栃もち峠西の尾」から字「くらが谷」で発生した横四〇〇間(約七二七メートル)、縦三〇〇間の大雪崩、十三日の雪崩は字「大沢」で発生した横一五〇間、縦二〇〇間余の大雪崩であった。
 十三日、隣村の池の島・坂無両村(いずれも下山村の枝村)に大声で救援を求めたが、池の島村では大雪のため渡舟が沈んでしまい、予備の小舟も修繕をしなければ使えず、坂無村も大雪のため谷沿いで行くことはできず、両村救援隊の現場到着は難航した。現場はまた雪が家々を二、三丈も埋め、しかもそれが氷となってしまっており、救出作業は困難をきわめた。十五日、本村の庄屋・組頭が人夫を連れて駆けつけ、十七日には角野村小左衛門、朝日村清兵衛も人夫を連れて駆けつけ救出作業は本格化した。作業は二月初めまでかかっている。生き残った村人は家屋敷・家具・衣類・食料のすべてを失い、村同士の付合いで隣村の救援のもと、飢えと寒さと闘いながら再建に努めねばならなかった。
 この災害は大雪のなか藩に報告され、藩役人の見分も行われた。また藩の救援を願うための願書も提出されたが、藩のこれに対する対応策は記録がなくいっさい不明である。村にもその後の記録はない。



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