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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    四 山村の生活
      升谷村巡見報告
 この三新田村は幕末期には行き詰まり、安政元年から村方趣法(納税できない村の財政再建)が実施された。今庄の鉄之助がその世話方になった。以下はその鉄之助の文久二年(一八六二)の三新田村のうち升谷村の巡見報告を中心に要約したものである(後藤市兵衛家文書)。
写真114 升谷村巡見報告書

写真114 升谷村巡見報告書

   五月朔日升谷村へ行く。
 (1)「田方」、一番耕はすべて済んでいる。
 (2)「畑方」「粟・稗」の蒔付もすべて済んでいる。「荏」はいつもより少ない。
 (3)春稼ぎに「榾」を伐っている。値は近年にないよい値段である。谷川を流す時は「鉄
   砲」というものを作る。川に高さ一丈ばかりの厳重な堰を作り、その真中で三尺ばかり
   上をあけ板を掛け、水をためる。川下に榾を入れ、先の板をのければ水勢により榾は
   一度に流れる。誠に感心した。水と榾との音、雷鳴のごとくである。
 (4)「蚕種」を皆に配分し、銘々に掃立てをさせた。
   五月二十八日升谷村へ行く。
 (1)田植付は今日ですべて終了した。畑方の粟・荏は蒔付後雨がなく、所により生え劣
   りがする。蚕は先に配分したもののほか、種々掃立てをしているが痛みがひどく過半
   捨てたとのことである。「茶」は思いのほか高値で一貫につき二匁ずつに売れるとの
   こと。
 (2)村では八人の百姓が仏谷で六反(三五五束刈)ばかり「開田」したいとのことである。
   開田の一部は弟に分家させるため、小高の分家、親類に譲るためとある。開田人夫
   の見積りは一〇〇〇人で、困窮の村方ゆえぜひ御許可願いたいとのこと。小前が納
   得しあとで故障が起らないならば聞き入れるとのことなので色々話合いをした。
   八月二十八日升谷村へ行く。六月末の予定が「痲疹」にかかり、この地も同様である
  とのことであるので延引したのである。
 (1)「田作」上出来、まず昨年より一割くらいよく見える。
 (2)「山作り」のうち、粟・稗も同様上出来である。
 (3)「蕎麦」はいま花盛りである。天候にも恵まれ生立ちも上々である。しかし流行病の
   ため蒔付不十分で、満作となっても収穫は減少すると思われる。
 (4)猪の被害は山畑の粟に所々に出ている。しかしまだ田は荒らされてはいないし、猿
   の被害もまだ出ていない。
 (5)「栃・奈良(楢)」の実などは「大なり」(大豊作)のよし。
 (6)流行の痲疹は大木場(大河内のうち)は容易ならざる様子で二人が死に、両三人は
   薬用中で他のものは全快したよし。
 (7)田倉俣では村中うつるものと心得て、まだ「はしか」にかからぬものは他村へ出さぬ
   よし。その厳しい用心でまだ一人もかかっていない。中島庄大夫の報告によると、岩
   屋村はいたって軽く済み、大河内村はいたって重く、老少五、六人が死に、生死いか
   んのもの両三人、他の者は全快のよし。閏八月二十八日升谷村に行く。
 (1)田作いよいよ上出来、まずは八、九分は刈入が済んでいる。
 (2)粟これまた上作である。
 (3)稗も同様上作であるが、まだ取入にかかっていない。
 (4)荏は蒔付後の虫入りで株絶えがあり、とても満作とはいいがたい。
 (5)蕎麦は生立ちは十分であったが、彼岸過ぎより雨がちとなったので実入りがよくない
   。風痛みもあり、とくに山中のものはよくない。
 (6)猪には早秋に少し荒らされたが、その後どこへいったのか出てこない。猿・狸・狐・兎
   ・小鳥などにはまだ少しも荒らされないので、みな喜んでいる。粟の取入や「早稲」の
   刈入は雨天がちで困っている。
 これによると升谷村は田作で早稲を作り、養蚕を行い茶を栽培し、そして山作では粟・稗・蕎麦・荏を栽培している。この四作物は各地の焼畑地帯に見られる典型的作物であるので、焼畑農業が土台となっていることがわかる。開田は藩の方針もあって中止となったが、升谷村など三新田村が焼畑農業から始まって、さらに水田開発を進めて水田農業へと進んでゆく過程がわかる。これはまた山村成立の型をみることができるともに、榾などの山稼ぎ、流行病の恐怖、深刻な鳥獣害、牧歌的光景など山村のもつ一面がうかがえて興味深い。



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