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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    四 山村の生活
      新田村の成立
 五箇山での木地材料の枯渇と、焼畑などによる山畑・山田の開発が進むと山麓の村々との紛争も起ってきた。山麓の村々の主張は、木地生産と焼畑開発が山を荒廃させ、洪水  を誘発し山麓の村々の田畑を荒廃させるというものであった。しかしなかには一方的無理難題ともいうべきものもあった。これに対して五箇山では、このままでは山麓の村々に「せり立」てられ生活もなりたたなくなるので、年貢を直納する「新成百姓」にして頂きたいと訴願を繰り返した。
 延宝元年(一六七三)福井藩から新田開発の触が出たことや、「奉行」蠏江刑部右衛門重幸の尽力により延宝二年ついに大河内村・升谷村・岩屋村として独立が認められた。これを三新田村と呼ぶ。このとき三新田村のそれぞれに与えられた定書の内容はほぼ同じで、
 (1)村高は大河内は三〇石、升谷は六〇石、岩屋は一〇石である。
 (2)御公儀御法度を厳守せよ。
 (3)いままでの「切畑」の慣行、開発してきた畑は認めるが新規の「焼畑」は厳禁する。
 (4)杪柴・薪などはいままでの実績どおり山麓の村々の百姓と入り交じって刈り取ってよ
   い。
 (5)大河内・岩屋・升谷の「木地挽」はいままでの実績どおり営業してよい。
 (6)山境内は「惣百姓」が永代支配してよい。山境は蠏江刑部右衛門が見分のうえ決定
   したものである。というものであった(大河内区有文書 資6)。五箇山は独立して三新田村となり、木地挽は百姓となった。
 安政六年(一八五九)の「高持雑家男女人馬改帳」によれば、岩屋村は高一〇石に家八軒(高持四、雑家四)、大河内村は高四一石余に家一五軒(高持九、雑家六)と牛七匹、升谷村は高六〇石に家二〇軒(高持八、雑家一二)と牛三匹とある。しかしゴイスキ・エブリなどの木製品を生産し、今庄商人を通じて販売しており、これを重要な収入源としているなど、かつての木地師集落の面影が残っている(後藤市兵衛家文書)。



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