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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    四 山村の生活
      「五箇山」木地挽証文
 南条郡瀬戸村の南側の広大な山間部(日野川上流)には、中世以来近江蛙谷系の筒井公文所の配下に属したといわれる鞍谷轆轤師を統率者とする一部の越前轆轤師が入山し、大河内・岩屋谷・増谷(升谷)・田倉俣谷・宇津尾谷の五箇山と総称される集落を形成し木地生産を行っていた。これらの村々は、太閤検地のさいには独立した村とは認められず、水田農業を中心とし、焼畑農業や山稼ぎも行っていた山麓の荒井村・八飯村・宇津尾村を通じて、木地山手を徴収されていた。
写真113 廃村となった升谷村

写真113 廃村となった升谷村

 寛文十年(一六七〇)に作成された「五箇山木地挽定証文」は、この木地師集落の姿をかいま見せてくれるもので、全九か条からなっている(大河内区有文書 資6)。
 (1)他国他領の「木地引」はいうまでもなく、「牢人者」はいっさい五箇山へ入れてはなら
   ぬ。
 (2)わが子をもつ者は他領の者はいうまでもなく、すべて「素人」を弟子にとり家職をさせ
   てはならぬ。
 (3)「御山手米」や「飯割米」を未進し、欠落した者が立ち帰った場合は、未進分に利息を
   加え必ず完済し、「御山手米・諸役義」を「惣並」に負担し、そのうえ毎年飯割米を一
   俵出さねばならぬ。この条件でまた五箇山での営業を許す。
 (4)家一軒に「じく」(轆轤)一丁をもつ者を「壱軒之役義」とする。一軒に二丁でも所帯が
   一つならば一軒分の役義、所帯が別ならば二軒分の役義とする。
 (5)多くの男子をもつ者があっても、つまり男がたくさんいて収入が多くても、他の木地挽
   と同様、御納所・御役義を負担すればよい。
 (6)女子ばかりでも「あとめ」を継ぐ者は「惣山なミ」の負担をせねばならぬ。あとめのほ
   かの女子に婿をとる場合は、木地挽のなかからとるべきである。他領の者や素人を
   婿にとった場合は、御山手・御役義を惣並に負担し、そのほか飯割米を毎年一俵出さ
   ねばならぬ。
 (7)子のない者は他領の者でもよいから必ずあとめの養子をもらい、山手米などを惣並
   に負担せねばならぬ。
 (8)「隠居」が養子をとり木地挽をさせたい場合には、五箇山の者を養子にして、御山手
   米・御役義を惣並に負担せねばならぬ。他領の者か素人を養子にした場合は、御山
   手などはもちろん飯割米を毎年一俵出さねばならぬ。
 (9)五箇山の外へ嫁入りし、子連れで離婚して帰ってきた者が、その子を木地挽にする
   時は、御山手米・御役義はいうまでもなく、そのほかに飯割米を毎年一俵ずつ出さね
   ばならぬ。
 後書によればこの証文は、五箇山で紛争が起り、製品販売など経済的に密接な関係にある今庄の庄屋等九人の斡旋により和解したさい作成されたものである。ここでの木地挽資格と密接な関係があるのは、領主への貢租である御山手米・御役義と、飯割米の負担である。飯割米は独自に徴収しているところをみると、自治的な木地挽集団の組合費または村費に相当するものと思われる。貢租などからみれば基本的には農村と変らない。出入の原因は、この証文の内容からすると各集落の木地挽の増加、そこからくる過当競争、木地材の枯渇による経営の行き詰りにあったのであろう。



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