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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
    四 山村の生活
      山論と傘連判状
 一つの村が二つの村に分離独立した場合、入会地や境界が問題になる。ここでは寛永期(一六二四〜四四)から明治中期まで二五〇年余繰り返されてきた、遠敷郡中ノ畑村と上根来(段)村の「かうしかり谷」山論について、中ノ畑村側の史料からみていきたい(中ノ畑区有文書)。
 寛永元年四月、中ノ畑村は口上書で次のように訴えた。
 (1)下根来村境の草山を毎年遠敷村百姓に売っているが、その山手は両村で配分して
   いる。
 (2)先年「つつらふち」を京・近江の商人に売った時も、その山手は両村で配分した。
 (3)近江境に茶屋ができ、その茶屋の振舞いも毎年両村百姓が一緒になって食べてい
   る。
 (4)「とち山」は両村相談して一度に口を明け、両村一緒に栃の実を拾っている。
 (5)下根来村と山の境争いが起った時も両村で対処してきた。
 (6)上様への「役儀」は両村一緒であり、その「御きりかミ」も両村一本である。
 (7)金山村と山の出入があった時も、両村が「談合」して解決してきた。
 以上の先例で明白なように、入会地はあくまで両村の共有である。ところが段村は不当にも先例を破り、両村の入会地である「かうしかり谷」から中ノ畑村を締め出し、独占を図っている。現地へ行って段村へ抗議したが、段村は多勢、中ノ畑村は小勢であるので侮られ、そのうえ、段村肝煎の「演説」に中ノ畑村の者は「かちけもの」ばかりで、反論もできぬ有様なので、一書をもってお願いする次第である。
 こうして始まった紛争は、寛永元年七月、藩の意向を受けた近隣の村の有力者八人の斡旋により次のような条件で和解をした。
 (1)かうしかり谷は永代中ノ畑村へ渡す。ただしこの谷のうち段村が年貢を納めている「
   畑」については、たとえ今後耕作せず永代あらしとなっても段村が進退する。
 (2)段村が当年開いた「畠」については、耕作しない場合には中ノ畑村へ渡す。
 (3)釣谷の「木原」(雑木林)半分はこうしかり谷につける。「平」もこれまた永代渡す。
 (4)「はへ」(杪)の半分のほか、「水なかれの相」(水量)を七割は中ノ畑村に付け、三割
   は段村がとる。
 (5)釣谷は中ノ畑村につけ、「かやわら」(萱原)は全部段村がとる。こうして長年にわた
   る懸案が一応解決された。しかし、かうしかり谷内の中ノ畑村持分の年貢地八反九畝
   五歩のなかに段村が畑を開くという問題や、「かやわら・木原」についての双方の持
   分をめぐって紛争は蒸し返され、双方の訴願・和解が繰り返された。
 寛政十二年(一八〇〇)には、上根来村に内通する者があれば、紛争に要した費用は全部その者に負担させ、「村仕法」(村追放か)とする傘連判状が作成された。また慶応三年(一八六七)には、この紛争の対応について村で決定したことは絶対漏らしてはならぬ、「若シ他言」する者があればその者を必ず「村外キ」とするとして「三社御神・蛭子大黒御神・祇園牛頭天王・南無観世音菩薩・南無地蔵大菩薩」に誓約する傘連判状が作成され、村の結束が固められている。
 明治十一年(一八七八)、地租改正の丈量にさいし、またもや白岩・こうしかり谷山・釣谷山の境界について中ノ畑村と上根来村との間で紛争が起った。この時も中ノ畑村では上根来村に内通する者が「露顕」した場合には、その者に費用の全部を負担させたうえ、「村追放」とする傘連判状が作成された(中ノ畑区有文書)。これは上根来村が訴訟して裁判となり、大阪控訴裁判所で中ノ畑村の敗訴となったので、明治十五年大審院へ上告した。しかしその費用は莫大で村の準備金では賄えず、金主を探し惣借とした。その代償や弁済については村の惣山に金主の希望する樹木を植え、すべての世話は中ノ畑村が行い、樹木が大きくなった段階でこれを売買し、惣借の返金とするという約定書が作成された。
 明治二十五年には改めて、この「再審訴訟」の対応について「南無薬師如来・祇園牛頭天王・南無大悲観世音(菩)薩」に誓約する傘連判状が作成されている(中ノ畑区有文書)。
 このように中ノ畑村は一致団結の力で対応してきたが、とくに慶応三年と明治二十五年の傘連判状は、神々に誓約する中世の一揆契約状の形式がとられている。しかし誓約している神々は「梵天・帝釈・四大天王・日本国中大小神祇」ではなく、上根来・中ノ畑両村の氏神であることが注目される。この両村の氏神の主神は祇園牛頭天王と観世音菩薩である。
写真112 山論の傘連判状

写真112 山論の傘連判状

 氏神の社には舞台・楽屋が設けられてあり、毎年九月二十七日には上根来村の神事能、同二十八日には中ノ畑村の祭事能が行われていた。



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