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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
     三 山の利用
      鷹山と農民
 鷹山は鷹の繁殖を保護するために領主によって設定された広大な深山で、自由な立入は厳重に禁止されていた。しかし多くは村の惣山と接しており、焼畑・山稼ぎの適地であったために、ひそかに焼畑や山稼ぎをする者が絶えなかった。こうしたなかで村の払下げの嘆願もあり、次第に鷹山の範囲を狭め村へ払下げをすることも多くなった。
 南条郡には温谷村など二一か村に、今立郡には東俣村など一一か村に、計三二か所の鷹山(鷹打山)が設定されていた(「越前地理指南」)。南条郡新道・大桐・山中三村の惣山が集中していた深山には福井藩の鷹山が設定されていた。松平忠昌入封のさい将軍家に献上され、「越前轟丸」と名付けられた名鷹の産地という。そのため百姓はもちろん、藩も用材などいっさい採取しない林として、大桐・新道両村に厳重な管理を命じてきた。ところが周辺農民の焼畑・山稼ぎによる蚕食はやまず、改めて鷹山と惣山の境の確認が行われ、その管理は大桐村が当たることになった。大桐村は鷹山内でも許可を得て木を切り、木の枝などを採取し、いままでの古畑跡も一部耕作が認められた。
写真111 大桐・山中村の鷹打山(「貞享国絵図」)

写真111 大桐・山中村の鷹打山(「貞享国絵図」)

 これに対して延宝三年、新道・山中両村は、この場所はもともと三か村の立合山の立林であり証文もある、大桐村は勝手に立林を分け取りしたと訴訟し出入となった。大桐村はあくまで許可された鷹山の範囲内と主張したが、「いつし畑」(焼畑)の耕作は延宝五年で打ち切りとし、今後はいっさい耕作を認めないとの裁定が出された。これに対し大桐村は、従来よりいつし畑で雑穀などをとり、生活や御納所の足しにしてきたこと、来春の作付のため年内に「こえはいヲまきちらし」たいこと、「来年之たのしミ」を失ってしまうのでぜひいままでどおり許可してほしいことなどを嘆願している(堀田五左衛門家文書)。
 東俣村には大寺谷という鷹山があり、領主である府中の本多氏により厳重な管理が東俣村に命じられていた。寛永(一六二四〜四四)頃たまたま役人が見分にきた時、この鷹山から煙があがっているのが見つかった。ただちに村中が集められ詮議されたが犯人はわからず、結局役人の命により鬮引で犯人をこしらえ、その者を村追放とした。しかし、犯人の詮議、鬮引、村追放者の路銀など莫大な費用が村の大きな負担となった。
 東俣村は貞享三年(一六八六)幕府領になったさい、困窮を訴え鷹山の一部払下げを嘆願したところ、峰通り一二〇間、平通り二〇間を残して東俣村に払い下げられることになった。しかし、雑木が生い茂っているこの谷に限っては、皆はかつての詮議に恐れて手をつけずそのまま放置していた。ところが宝永六年(一七〇九)、東俣村安右衛門は組頭(大庄屋)彦兵衛と組み、代官手代の支持を得て、鷹山の立木を炭焼きするとして独占的に払下げを受けることに成功した。驚いた村人は、鷹山は村の惣百姓・雑家が守ってきたこと、かつての詮議のさいも、村中が犠牲になったこと、鷹山と払下げを受けた場所との境界が必ずしも明確ではないこと、かつて村が払下げを受けた場所が含まれていることなどを列挙し、安右衛門への払下げを中止し、村惣百姓中に炭焼き用として払い下げしてほしいと訴え出入となっている。
 これらの事件から、鷹山が村へ払い下げられ惣山化していく様子や、それをめぐる紛争などを知ることができる。



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