目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
     三 山の利用
      立山・立林
 立山と立林は領主の用木を確保するため設定された山林である。鯖江藩には今立郡池田郷に幕府領から引き継いだ一一か所の立山があった。水海村にある、楢・ほうさ・ぶななどが生い茂る六町歩の立林も、その一つであり、管理は水海村の負担であった。村は上組下組に分けられ、両組より御林番として毎日二人ずつを出して管理に当たらせてきたが、宝暦十年(一七六〇)ついに村は負担に耐え切れなくなったためこれを中止した。そのため立林はいうまでもなく隣接の惣山、持山にもいっさい立入を禁止した。ただし持山については五年に一回、村役人立会いのもと日数を決め立ち入らせることにした。
 しかしこれは永続きしなかったとみえ、寛政二年次郎左衛門は山手金を納めて字「荒谷」の柴御立山で炭焼きをし、御家中へ御用炭を納めることを願い出て許可されている。その条件は、四〇年前祖父が認可された時と同様に三か年諸木を伐採し炭焼きをすること、山手金は年二分合計一両二分、伐採のあと次の諸木が伐採可能になるまで、次郎左衛門が村の負担となっている山番を勤めるというものであった。
 鯖江藩では山林は郡奉行の担当であったが、弘化元年(一八四四)、新たに普請奉行に山奉行を兼任させて立山の担当とし、地元の水海村次郎左衛門等七人を御立山下守役に任命し管理に当たらせることになった。また、立山内の桧・草槙・杉・松・栗の五木を御用木とし、それ以外の雑木・痛み木・芯枯木・間伐材などは下守役を通じて希望者に入札で払い下げることとした。百姓持山は従来どおり郡奉行の担当としている(『間部家文書』第四巻)。
 立山・立林は「松御立山壱ケ所 此反別壱町九反八畝拾歩」と面積をはっきり打ち出してはいたが、ほとんど雑木林で、現在のような杉・桧・松の美林は当地方では少なかった。郡上藩も穴馬郷で一一か所設定していたが、「雑木立」「桧木若木・姫小松若木・雑木」という有様であった。



目次へ  前ページへ  次ページへ