目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
     三 山の利用
      百姓持山
 山は村の共有地的性格が強かったが、百姓持山は売買・質入れが盛んに行われていた。村明細帳類などには、「百姓持山少々御座候得共反別相知不申」「惣山之内ニ村百姓共少々宛分、林ニ仕雑木杪仕候」「百姓持山小松少々御座候、林無御座候」「百姓持山林壱ケ所、持主次郎兵衛、此山手米壱斗四升六勺、但杪柴并牛馬飼料草刈山ニ而御座候」などと簡単に記されている。「百姓持山七万五千苅余、内三万苅余他領・江越山」と、山の大きさや価値を杪柴の生産量である「苅」で表すこともあったが、反別もあいまいでほとんど雑木山・草山であった(「池田郷中村々明細帳」など)。
 個人の持山と共有地である惣山との境界もあいまいであり、持山か惣山かの区別をめぐっての紛争も絶えなかった。今立郡池田郷水海村では承応二年大百姓の持山について、持山を持たない小百姓がそれは惣山だと主張し紛争となった。双方の話合いで持山・惣山の再確認(再編成)が行われたが、大百姓側は「我々持山ニ付小百姓衆・惣山之由被申候得共、書出シ之表ハ少も不残先規・我々持山ニ相極り申候、若惣山之内と心中ニ乍存知少ニ而も持山と申か、又ハ聞及置候而も、唯今偽於申ハ」(鵜甘神社原神主家文書)という起請文を書いて小百姓側に差し出したのであった。
 今立郡池田郷月ケ瀬村は「惣山剥山」がなかったので、百姓持山がその役割も果たしていた。正徳五年(一七一五)、小百姓等が諸役の家割をすべて高割にするよう要求したことから、大百姓と小百姓の出入となった。大百姓側は次の三点をあげて強く反論した。(1)諸役が家割中心となっているのは、古来からの村法である。(2)それは山方の百姓は小高持が多く、田畑耕作のみでは「渡世仕難」いので、それを補うために大高持も小高持も持山をお互いに入会としているからである。(3)これは池田郷内に限らず「当国山寄せ之村々」は程度の違いはあるがみな同じである(上島孝治家文書 資6)。この入会とは具体的には「高持百姓持山之内遠山之分」で、村内の百姓・水呑は自由に「鎌」を入れ柴草を刈り取り、山主は「よき切、なた切、なぎ畑」をすることだと記している(「池田郷三拾八ケ村明細帳」岡文雄家文書)。
写真109 月ケ瀬村

写真109 月ケ瀬村

 今立郡池田郷東俣村では、山の大部分を飯田家が所有し、残り一部が惣山となっていたので、小百姓の飯田家持山に対する依存が強かった。延享四年(一七四七)の取決めにより、飯田家が毎年正月に人数を決め、一か年に米一升を納めさせ、飯田家の山に立ち入り、山稼ぎや田肥の採取をすることを認めることになった。ところが寛政二年(一七九〇)、飯田家と小百姓とのあいだで紛争が起り、小百姓側はいっせいに揚田(飯田家小作地の耕作拒否)を行った。
写真110 東俣村

写真110 東俣村

 これに対して飯田家側は、小百姓側の耕作地は減ったのだから田肥は従来のようには必要でないはずであり、田畑の耕作をしないで山稼ぎに力を入れれば山は荒廃し、飯田家の田畑耕作の田肥も不足するとして、小百姓側の飯田家山林への立入禁止を鯖江藩に申請した。藩では調査のうえ、突然の揚田は小百姓側の不埒として飯田家側の言い分を認めたので、寛政四年から飯田家は持山への小百姓の立入を拒否した。
 一方小百姓側は山稼ぎや田肥採取の場を失うことになったので、飯田家の持山と惣山の区別や境界があいまいな所もあるとして、従来どおりの立入許可を藩に求めた。藩は丹生郡乙坂村覚兵衛・大虫村嘉左衛門に斡旋者となり内済とするよう命じた。しかし両人の斡旋は不調に終わったので、寛政五年三月、藩は原因は突然の揚田にあるとして小百姓側を説得し、飯田家の田畑の揚田をやめ、荒らさないようにするとの誓約を、村役人の確認のもとでさせた。また飯田家に対しては、延享四年の取決めに従って小百姓の立入を認めるよう命じてこの紛争は収拾された。当時の山林地主と小百姓との関係、山林利用の慣行がうかがわれて興味深い(飯田廣助家文書)。



目次へ  前ページへ  次ページへ