目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
     三 山の利用
      さんばく
惣山のなかには、用水源涵養や用材確保のために伐採が禁じられている林山と、「さんばく」と呼ばれる山があった。「さんばく」は語源は不明だが山剥・散剥・参剥などとも書き、田の肥料とする草・木の葉・小木・潅木類や、燃料である杪柴を採取する山である。村によっては焼畑の地とされているところもあった。惣山が次第に百姓の持山化していくなかで、山剥は最後まで残され、惣山すなわち山剥と呼ばれるようになっていく。百姓持山ばかりで山剥のまったくない村もあったが、ほとんどの村には存在していた。
写真108 常安村

写真108 常安村

 池田郷常安村で起った山剥をめぐる紛争は山剥の性格をよく示している。この村では山剥は百姓・水呑の入会として茅・草・薪を採取していた。しかしもともと山剥は百姓の持分であるとして、水呑には水役銀を村へ納めさせ、そのうえに山手米の一割を水呑に出させ、九割は百姓の家割としていた。ところが、この山剥にいつしか頭立百姓(村の有力農民)が杉の植林をするようになったため山剥の所々に杉林ができた。文政十二年(一八二九)四月中旬、この杉林が何者かに夜中いっせいに切り払われてしまうという事件が起った。村はただちに藩に訴え出、その後の調べで村内の小百姓・水呑八人の仕業と判明した。鯖江藩大庄屋彦次兵衛・稲荷村庄屋猪子兵衛の二人による説得と仲介もあり、頭立百姓と小百姓・水呑に対して、次のような裁定が申し渡された(佐飛喜左衛門家文書)。
 (1)近年頭立百姓のなかに、山剥と唱える場所に杉木を植えるようになったので、小百
   姓・水呑は耕作の肥やしにも差し支えるようになった。以後、植林は山裾で、横に幅
   九尺までは勝手次第とするが、それ以外は厳禁する。ただし現在ある杉林二、三か
   所はそのままとし追々伐り取ることとする。また、従来のように松木以外は伐り払い立
   木は置かず、山剥として復元するので、山手米は従来どおり一割は水呑に差し出させ
   、九割は百姓家割とする。
 (2)頭立百姓は平常得手勝手の欲心になずみ、小百姓・水呑へ「哀憐の心」がないので
   、小百姓・水呑も頭立百姓を尊敬せず、双方が行き違いこのような事件となった。ま
   た一己の勝手に任せ杉木を多分に植え立てたので、小百姓・水呑は困窮差し迫り、
   心得違いをして一村の騒動となった。山剥の持主である百姓には「杉木植候筈」とい
   う権利がある証拠はないし、小百姓・水呑にも杉木を「不為植」という権利がある証拠
   もない。今後は水魚の交わりをもって相互に睦まじくし、この規定を必ず守ること。



目次へ  前ページへ  次ページへ