目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
     三 山の利用
      山親方と請山
 池の島村は村成立以来朝日村助左衛門が所持する山を、山手町升一石七斗六升六合(大豆または小豆)で請山していた。寛文七年(一六六七)助左衛門はこの山を取り上げると言い出したことから出入となった。池の島村の言い分は、
写真107 池の島村の請山証文

写真107 池の島村の請山証文

 (1)三〇年以前、助左衛門は銀五〇〇匁を池の島村が拠出してくれれば、その利息で
   毎年の山手を差引算用するというので、そのとおりにするとその後も次から次へと銀
   の拠出を求められ、現在は九五八匁二分となっている。いずれも証文があり、このほ
   か銀一四四匁四分の利息の証文も持っている。
 (2)右のように多額の銀を拠出してきたのに助左衛門は少しも清算せず、大豆・小豆・雑
   穀・味噌・塩に至るまで毎年村から取り立ててきた。迷惑このうえないが、助左衛門
   は前々より「山親方」として我々を「家来同前」に応接するので、一言も断ることはでき
   ず、ぜひなく助左衛門のいいなりにこれらを納めてきた。
 (3)去年霜月(十一月)またまた助左衛門は、池の島村に年賦銀二貫匁の請人になって
   ほしいと依頼してきた。助左衛門身代の分け目というので、我々としても協力したいと
   思い、事情を聞きに行き説明を聞いたがわからずに帰ると、理不尽にも山のあげ証文
   を助左衛門方へ取られてしまった。我が村成立以来支配してきた山を今になって取り
   上げられては、村中退転は必至である。
 (4)このように村中倒れ潰れるほど多額の銀子を拠出してきたのに、かの山を他所へ売
   り渡すと言っている。この山に離れたならば我が在所が潰れることは必至である。
というものであった。これに対する郡上藩の裁許は、
 (1)池の島村は前々よりの請文どおりこの山を進退し銀二貫匁を出す。
 (2)その代り当年より二五年間山手銀なしに作取りとする。ただし助左衛門へは毎年一
   軒に二人の「日手間」を出すこと。
 (3)二五年後、助左衛門支配に戻し山手銀を山年貢に改め、池の島村は一年に大豆ま
   たは小豆で、町升二石六斗を助左衛門に納め永代に山を利用する。そのほか「日手
   間」は毎年一軒三日とし、助左衛門へは山親方としての尊敬を忘れず出頭を怠らない
   ようにする。
とのことであった(朝日助左衛門家文書)。山親方助左衛門の絶大な権勢もさることながら、惣山が少ないため請山をし、それが村の命運を左右するため、助左衛門の要求に従わざるをえなかった村の姿がよく示されている。



目次へ  前ページへ  次ページへ