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 第三章 近世の村と浦
   第三節 山方の村々
     三 山の利用
      村と惣山
 山は共有性が強かった。なかでも村法によって、自由な立入が保障されている最も共有性の強い山は惣山(立合山・入会山)、何か村もの惣山が集中している広大な山は何か村立合山と呼ばれた。惣山がとくに共有性が強かったのは、貢租が村請制であったこと、村が共同体であったことからである。換言すれば、惣山は第一には本田畑の肥料採集・用水源涵養の地であり、第二には生活資源採取の地、また山稼ぎの中心の場でもあったからである。そしてその所持や用益についての慣行は、自治的村の成立過程のなかで、村内外での激しい競合・対立を繰り返しながらできあがったものであった。
 しかし開発の進行、階層分化、小農民の成長などによる村内部の変動にともない、この共有性の強い惣山も次第に性格を変え、境界をつくって持山に分割されていく動きが強まっていった。何か村立合山も同じように紛争を繰り返しながら、境界ができて各村の持分が決まっていった。
写真106 朝日村山境絵図

写真106 朝日村山境絵図

 大野郡穴馬郷朝日村は九頭竜川の最上流の山間にあり、村高七石余の村である。この村の近世前期の村法に、村と惣山、惣山と持山の基本的なあり方とその関係を示す次のような規定がある(朝日助左衛門家文書)。
 (1)朝日村の全山は往古より本家助左衛門の持山である。四軒の別家、二軒の孫別家
   には、古来より境目を決めて分地をしないで、全山自由に利用させてきたので今後も
   同様とする。
 (2)非同姓のものも往古は多くあり、同様に利用させていた形跡もみえるので今後は別
   家同様とする。しかし別家などが山作(焼畑)したい時は、本家助左衛門に場所を決
   めて届け出て許可を得ること。
 (3)本家助左衛門は荒作所(焼畑可耕地)を何方へ売買しようと自由ではあるが、そうす
   れば山の狭小なこの村では自然草薪などが乏しくなり、本家別家ともに困窮の基とな
   るので用捨(控える)せねばならぬ。ただし本家が身上(財産・家計)不勝手となり、
   やむをえず荒山一作売などの事態に陥った場合には、村一統全力をあげて日手間(
   一人一日単位の労働)などで本家に協力し、山が他所の手に渡ることを防がねばな
   らぬ。
 (4)鳥鳴山谷は往古より銘々の持分境目もはっきりしており、これまでは他所への一作
   売など自由にしてきた。しかしこれまでどおり自由にすると、草薪の場所に差し支え村
   一統の難渋は明らかであるので、以後身上の差支えがない限り、他所への売買を禁
   止する。しかしごく困窮に陥り、やむをえず売らねばならない時は村方へ断って売るこ
   と。村人もこれを認めねばならぬ。
 (5)村一統山を自由に利用するからには、御用人足は従前どおり平等に勤めることはも
   ちろん、山手米も従前どおり高割家割に出し上納せねばならぬ。
 (6)下山池の島村への外字山は、本家助左衛門および清兵衛両人より山手米を上納し
   ているので、村方とはいっさいかかわりはない。
 朝日村の山は助左衛門一家の所持であることを強調しながらも、村民の自由な利用を認めた。しかし売買については村のためと称しながら規制を強め、村全体で守ることも義務付けている。鳥鳴山谷には個人の持山もあるが、これも売買には村の規制が強い。村といっさいかかわりがなく個人の持山といえるのは、助左衛門と清兵衛が独自に山手米を納入している下山池の島村への外字山だけということができる。



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